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過去の説教

2026年10月11日

「それは本当に神に従うことですか?」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第21主日) 2026.10.11 杉野信一郎

「それは本当に神に従うことですか?」

  • 聖  書 使徒言行録5章27~42節

  • 中心聖句 使徒5:38-39 あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。

  • 讃 美 歌  447、534


1 はじめに(導入)

「長い物には巻かれろ」ということわざがあります。自分よりも強い者、権力のある者には従った方が得策だという意味のことわざで、私のように、役所の中で生きて来た者、また会社組織の中で生きている人たちにとって、それは、出世するため、あるいは出世を望まないとしても、組織の中で円満に生きていくための処世術です。自分の思いを前面に出してむやみに上司に盾突く部下がいれば、そんな協調性のない者は組織の中では生きていけないよと諭したものです。そうやって、これまで長い間、組織の中で平和に適合して生きてきたわけですが、でも、本当にそれでよいのかという思いを何度も抱いたことも事実です。自分に関わる権威者の考えが正しい、正義に適ったものであれば問題ないわけですが、実社会の中ではそうでないことがいくらでもあります。組織の中でうまくやっていくためには清濁併せ飲む覚悟が必要だよと上司から諭されたこともありました。そんな私にとって、今日の聖書で語られている権威者を前にしての使徒たちの態度はとても眩しく見えたものです。しかし、その一方で、サドカイ派の人たちに対して共感や同情を覚える自分がいることにも気付かされるのです。

 

2 サドカイ派の人々のねたみと怒り(展開1)

時は、五旬祭の日に使徒たちの上に聖霊が降ってから間もない頃のことです。使徒たちによる多くの不思議な業としるしを見て、多くの者たちが使徒たちに従って、キリストを信じるようになりました。神殿で語るペトロの説教を聞いて、キリストを信じる者の数はどんどん増えて行きました。それを見て、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々は、ペトロとヨハネを牢に入れ、議員、長老、律法学者たちは「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と訊問しました。「イエス・キリストの名によるものです」と答えるペトロに対し、彼らは、イエスの名によって話したり、教えたりしないように命令し、脅して、釈放しましたが、使徒たちの業は留まるところを知らず、信者はますます増えて行きました。その様子を見て、大祭司とサドカイ派の人々は、ねたみに燃えて、使徒たちを再び捕えて牢に入れましたが、夜中に主の天使が現れ、彼らを牢から出して「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と告げました。彼らは夜明けごろ境内に入って教え始めましたが、そこで再び逮捕され、最高法院へと引き立てられていきました。そこから本日の箇所に入ります。

そこで大祭司が訊問します。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」「あの名」とはイエス・キリストの名のことです。大祭司は、使徒たちが民衆に「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて」、つまりローマ総督ピラトの手を借りて、イエスを「十字架につけて殺してしまった」、「命への導き手である方を殺してしまった」と語ったことを捉えて「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」と言っているのです。そして、30節ですが、ここでの訊問に対しても「あなたがたが木につけて殺したイエス」と言って、彼らの罪を改めて突き付けています。ここまで忖度なく、怯むこともなく、はっきりと権威者の面前でその非を述べることが出来る使徒たちは、本当に眩しく見えます。かつてイエスが捕らえられるのを見て逃げたり、何度も「知らない」と否認したりしていた弱々しい姿が噓のようです。それは、彼らが「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」という確信を持っていたからです。そして、使徒たちが大祭司やサドカイ派の人々の罪を彼らの面前で語ったのは、単に彼らの責任を追及するためではなく、ある目的があったからです。それは31節で言われているように、「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため」です。神が十字架で死なれたイエスを復活させ、天に上げられたのは、彼らが悔い改めて罪の赦しに与るためであるからです。

しかし、大祭司やサドカイ派の人々は、これを聞いて激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えました。使徒たちがイエスを殺した責任を自分たちに負わせようとしていると思ったからです。使徒たちが「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と語ったことも彼らの怒りを増幅させました。彼らは、自分たちこそ誰よりも神に従っている者であると自任していて、イエスやそれに従う使徒たちは、神を冒涜する者たちだと考えていたのです。そして、使徒たちが「自分の考えを広めている」と考えていたのに、使徒たちは、大祭司たちに従うことの方が人間に従うことだと決めつけて、大祭司の権威をないがしろにしていると感じたからです。しかし、それだけではないかもしれません。彼らは、使徒たちが自分たちにも悔い改めを求め、罪の赦しに与らせようとして語っているのだということに気付いていたのかもしれません。しかし、彼らは、到底その勧めを受け入れることが出来ませんでした。悔い改めとは、それまでの古い生き方を180度転換して、新しい人間として神に向かって生きることです。しかし、大祭司やサドカイ派の人々には、それは到底受け入れ難いことだったのです。何故でしょうか。

一つには、彼らが使徒たちの福音を受け入れた場合、それは直ちに、イエスの十字架刑を決定した最高法院の議決が誤りであったと認めることになるからです。それは、彼らがそれまで持っていた国内最高の権威を放棄することを意味しました。第二に、イエスの名によって救われると認めるということは、エルサレム神殿のすべての営みの根拠を失うことを意味するからです。大祭司や祭司たちがそれまで神殿に詣でる人々に与えていた罪の赦しの宣言や、諸々の犠牲を献げる祭儀も一切無意味になってしまいます。それは実質的な神殿の崩壊を意味します。そして、そのことは、神殿の営みを生業として生きて来た彼らの生活基盤を失うことを意味しますが、それだけに留まりません。神殿は、長年、神の民として生きて来たイスラエルの誇りであり、民族統合の象徴でもありました。その神殿に仕えて来た者にとって、神殿を実質的に崩壊させる決断は到底出来ないことであったのだと思います。そのようなあり得ないことを迫る使徒たちに、最高法院の議員たちは激しい怒りを示したのです。

 

3 ガマリエルの勧め(展開2)

ところが、そこに一石を投じた人物が現れました。ガマリエルです。最高法院の議員の三分の二は神殿を支える祭司や貴族からなるサドカイ派が占め、残り三分の一は庶民を基盤とするファリサイ派が占めていて、彼らの間では、使徒たちの発言に対する温度差がありました。死者の復活を信じないサドカイ派は、イエスの復活を主張する使徒たちの発言に最も強い反発を覚えていました。一方のファリサイ派も一枚岩ではなく、大きく分けると律法に厳しい厳格派とそうでない穏健派に分かれていて、厳格派はイエスと激しく対立していました。それに対してガマリエルは穏健派の重鎮で、派閥を超えてすべての人から尊敬されていた人物です。また、ガマリエルはサウロと名乗っていた若き日のパウロの師匠としても知られる高名な律法学者ですが、サウロはガマリエルの穏健な律法解釈やナザレ派と呼ばれていたイエスたちに対する共感姿勢に嫌気が指して師匠と袂を分かち、教会の迫害者となったと思われます。

ガマリエルは、怒り沸騰して使徒たちを殺す決定を下そうとしている議場を落ち着かせる一つの提案をしました。イエスを信じる使徒たちが神に従っているというなら、神がどうなさるか見てみようと提案したのです。もし、イエスの名によって業を行うことが、神から出たものではなく、人間から出たものなら、自ずと滅びていくから、使徒たちから手を引くことが賢明だと勧めたのです。ガマリエルは、二つの歴史上の出来事を引き合いに出してこのことを説明しました。それがガリラヤのユダが興した反乱と、テウダという人物が起こした事件です。ガマリエルがこの二つの事件を取り上げたのは、あるカリスマリーダーが現れて、それに多くの人が従ったとしても、それが人間から出たものなら、そのリーダーが死んでしまえば、従っていた人たちはバラバラになる、ということを示すためです。テウダの事件もユダの反乱も、リーダーの死とともに従う人は消え去り、グループは瓦解したのです。だから、イエスというリーダーによって起こされた使徒たちの活動も、それが人間から出た行動であるならやがて瓦解するから、それを待つ方が得策だと指摘しました。そして、それが逆に神から出たものであるなら、それを滅ぼすことは出来ないし、使徒たちを殺す決断をすることによって、あなたがたは神に逆らう者となるかもしれないと言って、そのリスクを指摘したのです。議員たちは、この提案を受け入れ、使徒たちは間一髪のところで殺されずに済みました。

 

4 神から出た計画に従う喜び(結論)

このガマリエルの議論は、はからずも使徒たちの業が神から出たものであることを証明する道備えとなりました。最高法院から釈放された使徒たちは、消え去ることなく消え去りませんでした。使徒たちの多くの者は、やがて殉教の死を遂げることになりますが、それは、この時ではありませんでした。神は、使徒たちが死ぬのはまだこの時ではないと考え、介入されたのです。ガマリエルがこの発言をしたのも、神の介入があったからかもしれません。そして、使徒たちが天に召された後もそれに続く者が起こされ、教会は幾多の困難に見舞われながらも、今日まで二千年以上にわたって生き続けています。それは、決してキリスト者の人間的な努力の結果ではありません。それは、使徒たちから教会へと受け継がれている活動を進めているリーダーが死んだままではなかったからです。十字架で死なれた主イエスが復活され、今も生きておられて、教会を用いて御業を行い続けてくださっているからです。

最高法院を開放される時、使徒たちは鞭打たれました。そして、その後も幾多の困難を経験し、殉教に至った者もいました。それでも、使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜びました。その喜びは、痛めつけられることのマゾ的な喜びではありませんし、自分たちが立派にやれたという喜びでもありません。主イエスを裏切ったにもかかわらず、主イエスの十字架の死によって赦され、復活によって新しく生きるものとされて、キリストの福音を告げ知らせる者とされたことを喜んだのです。

私たちも、使徒たちと同じように、主イエスの十字架によって罪を赦され、復活の主イエスに用いられて、主イエスを証しして生きています。この喜びに満たされて、私たちは神に従って生きてゆくのです。

日本基督教団 横須賀上町教会

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