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過去の説教

2026年10月4日

「重大な警告!?と励まし」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第20主日) 2026.10.4 杉野信一郎

「重大な警告!?と励まし」

  • 聖  書 ヘブライ人への手紙6章4~12節

  • 中心聖句 ヘブライ6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。

  • 讃 美 歌  342、369


1 厳しい警告(導入)

「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることは出来ません。」

今日示された箇所の最初のこの言葉を、私が初めて読んだ時、何と恐ろしい言葉だろうと絶句し、それならば、なまじ洗礼を受けてクリスチャンにならなかった方がよかったのではないかと思ったことを思い出します。

私は、高校3年生の時に洗礼を受けてクリスチャンとなり、それ以降、一応、教会生活は絶えることなく続けて来はしましたが、その間、洗礼を受けた若い頃の純真な心を持って生きて来たかどうかと振り返ると、恥ずかしくて人には言えないような振る舞いも何度となくしてきたことを思い出します。キリストに導かれ、キリストの愛と憐れみを受けて生きて来たのに、何と堕落した歩みであったかと思わざるを得ません。それは、信仰を持っていない普通の人であれば、よくある程度のことかもしれませんが、キリストの招きと教えを受け入れ、洗礼を受けて、たくさんの恵みを頂きながら生かされてきたのに、堕落した生活しか送れない自分はもう救われないのかもしれない。もし、キリストのことを知らなかったなら、知らないでやってきたことだから、神は赦してくださったかもしれない。この個所を読んで、そんなふうに思ったものです。果たしてこの厳しい言葉を、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。

 

 

2 立ち帰らせることの出来ない罪(展開1)

そもそも、ヘブライ人への手紙の著者は、なぜこれほどまでに厳しい言葉を記さなければならなかったのでしょうか。この手紙が書かれた時の手紙の受け取り手は、どのような状況に置かれていたのでしょうか。このことについては、先々週の礼拝の説教でも触れておりますが、もう一度おさらいしておきたいと思います。

ヘブライ人への手紙は、著者も執筆年代も特定されておりませんが、おそらく書かれたのは紀元1世紀の末頃で、ヘブライ人を中心としたローマの教会で読まれることを想定して書かれた説教集のようなものではないかと思われます。当時のローマの教会は、まだごく小さな群れに過ぎず、皇帝ネロによる厳しい迫害に晒されて、信仰を大きく揺さぶられ、教会を離れて、もとのユダヤ教の信仰に戻っていった信徒たちも少なくなかったと思われます。そのような厳しい状況に置かれている教会を何とかして励まし、キリストの教会として立たせていこうとしてこのヘブライ人への手紙が書かれたのだろうと思います。

4節の「一度光に照らされ」という言葉ですが、これは、後の時代に洗礼式で用いられた言葉で、一度限りの洗礼を受けて、キリストの信仰に入ったということを表しています。人がキリスト者になる場合、霊的照明が起こり、後に信仰を否認した場合には、その時に頂いた霊的な光を永遠に失うことを意味しました。「天からの賜物」と「来るべき世の力」とありますが、これは、神から頂くすばらしい御言葉と、来るべき主の日に完全に示される神の力を、キリストの信仰に入った者には、先取りして示され、そのすばらしさを味わうことが許されている、そのような聖霊の祝福に与っているということです。

「堕落した者」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではここだけで用いられている言葉ですが、「堕落」という訳は、誤解を生ずる訳だと思います。本来は、「不真実を行う」、「脇に落ち、道を離れる」という意味の言葉で、ここで意味しているのは、「キリストの真理を放棄した者」ということであろうと考えられています。先ほど述べたように、当時、ローマではキリスト者に対する迫害が起こり、この先、それが激化していくのではないかという不安が広がっていた中で、ヘブライ人への手紙の著者は、すべてを知り味わった上で、主イエスが神の子であることを否定し、キリスト教信仰から離脱する者は、「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だ。」そして、元は「度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらす」、「神の祝福を受ける」土地であったのに、「茨やあざみ」に覆われて、「やがて呪われ、ついには焼かれて」しまうという厳しい言葉を語りました。著者は、一度信仰に入った信徒たちに向かって、何としてでもそこから脱落しないようにと、このような厳しい警告を語ったのでしょう。大変厳しい警告ではありますが、キリストの教えを捨ててしまった者に対する断罪ではないのです。

しかし、その後、キリスト教の迫害が実際に厳しくなってくると、この箇所をめぐって様々な解釈が行われて行きます。特に、紀元3世紀のデキウス帝による迫害によってファビアヌスという司教が殉教した後、迫害の中でキリスト教の信仰を捨てた背教者の復帰を求めるかどうかが教会を二分しました。厳格な人々は、棄教した人が悔い改めて教会に戻って来ても、聖餐式から締め出しました。彼らは、迫害下にあっても罪を犯さなかった者たちだけからなる教会形成を目指しました。その際、彼らが主張の論拠としたのが6節の御言葉です。しかし、教会史に名を遺した教父たちは、この箇所の文脈に沿った理解と聖書全体の教えに照らして、彼らを論駁しました。教父たちが目指したのは、三度キリストを拒んだペトロが赦されたように、「赦しのある教会の形成」です。

 

3 愛する者たち(展開2)

このことは、次の9節以下によって明らかにされていきます。

この9節からは、口調もそれまでの三人称を用いた厳しい口調から、「わたしたちはあなたがたに」という親しみを込めた柔らかい口調に変わります。そして、9節は、「しかし、愛する人たち」という言葉で始まります。牧師たちの中には、説教を始めるとき、会衆に向かって「愛する皆さん」と呼び掛ける方がおられて、私も一度真似をしてやってみたのですが、何だかとても気恥ずかしくなってしまって、それ以降やめてしまいました。でも、この呼びかけは「私が愛している皆さん」ということではなくて、「神様によって愛されている皆さん」という意味で言うのであれば、気恥ずかしさを感じることはないかなと思ったのですが、でも、やっぱり未だに中々言えないでいます。大分横道に逸れましたが、聖書では、この「愛する人たち」という呼びかけはパウロの手紙やペトロの手紙、ヨハネの手紙などでしばしば用いられています。この手紙ではここだけで用いられていますが、この手紙の著者は、このような呼びかけをすることにより、先に与えた厳しい警告が読者との交わりを断つためではなく、むしろ交わりを確かにするためであることを明らかにしようとしているのです。そして、神は、神が差し伸べた救いの御手を拒む者を赦さない厳しさを持ったお方であるけれども、それ以上に、神は、たとえ私たちの罪がどれほど深かろうとそれを赦し、救うことを望んでおられる方なのだ。わたしたちは、神が救いを拒んだ者を滅ぼされるという重大な警告よりも、もっと良いこと、あなたがたが救いに与る者であることを確信しているのだと言うのです。

続く10節では、著者のその確信は、著者の個人的な思いではなく、神の義に基づいているのだということを「神は不義な方ではない」という言葉で表しています。そして、「あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」と断言します。「聖なる者たちに仕える」とは、同胞である信者に仕えることです。コリントの異邦人主体の教会がエルサレム教会に献金を献げたことなどは、その典型的な例と言えるでしょう。信徒の人間的な名誉や利得のためではなく、神の名のため、神の栄光のためになしたそうした信徒同士が支え合う働きをはじめとする愛の実践を、神は決して忘れることはないと断言して、あなたがたは救いに与る者とされているのだから、神を信頼するようにと勧めるのです。

 

4 信仰と忍耐と希望をもって歩もう(結論)

著者は、以前も、今も、愛の実践に励んでいる教会の信徒たちを称賛した後、11節、12節では、彼らに対する著者の願望が語られます。それは、これから将来のことです。「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたい」と著者は切望しています。それは、読者の教会では、迫害下にあっても互いに助け合う愛の業が日常的に行われてきたけれども、迫害がこれまでよりも一層激しさを増した時、今までと同じように愛の実践を続けていくことが出来るか、そしてこれまでと同じ熱心さをもって、あなたがた一人ひとりが、誰一人として欠けることなく、希望を最後まで持ち続けることが出来るかどうか、不安に思わせられる現実があったことを示唆しています。希望とは、具体的に何を指しているかは今日の箇所の先のところで語られますが、一言で言えば、神ご自身とお会いすること、それも地上の幕屋の中ではなく、天上の幕屋の中で神と相まみえること、それこそがこの手紙の著者が示す信仰者の究極的な希望です。そのためには、これから先、どんなに迫害が厳しくなったとしても挫けない熱心さが必要です。12節では、「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」と訴えます。「怠け者」とは、「聞くことに対して鈍くなっている者」という意味です。これまで、彼らが愛の業で示した熱心さと同じ熱心さを御言葉を聴くことに向けてほしい。鈍くなっている耳を新たに開き、希望の言葉を信仰と忍耐をもって聞き続ける教会であってほしいと願っているのです。そして、最後まで希望に生きたアブラハムをはじめとする旧約時代の信仰者たちに倣うよう勧めています。彼らは、信仰と忍耐をもって約束されたものを受け継ぎました。

この著者の願いは、現代を生きる私たちにも向けられています。今日、私たちは、ヘブライ人への手紙の著者から重大な警告を聞きました。私たちの教会においても、様々なことで教会から離れていく人たちがいます。私たちは、そのような人たちを躓かせてしまったのではないかという負い目を感じています。一緒に礼拝を守れる日々が戻ってくることを祈り求めるばかりです。私たちは、霊的成熟に至っていない自らの歩みを悔い改め、聖書の御言葉に真剣に耳を傾け、愛の業に励みつつ、その日を待ち続けます。信仰の先人たちの背中を見つめつつ、罪深い者が大祭司イエス・キリストのとりなしの故に約束のものを受け継ぐという希望を、信仰と忍耐をもって持ち続けて歩んでまいりましょう。

日本基督教団 横須賀上町教会

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