

過去の説教
2026年9月27日
「神さまの秘密の計画」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第19主日) 2026.9.27 杉野信一郎
「神さまの秘密の計画」
聖 書 コロサイの信徒への手紙1章21~29節
中心聖句 コロサイ1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
讃 美 歌 299、469
1 風化する十字架の出来事(導入1)
私たちの国が戦争に負けてから80年を超える年月が過ぎ去りました。戦争の悲惨さを身をもって知っており、また、私たちの国が戦争へと向かって行った当時の社会の空気感を知っていて、そのことを実体験として語ることの出来る人がほとんどいなくなろうとしています。戦時中の悲惨さを身をもって味わった人は、それがどれほど悲惨で惨めなものか、狂気であったか、地獄のような経験であったかをありのまま語り、何があっても戦争を繰り返してはならないと、後の世代に向けて語ってきましたが、今や、そのような語り部はほとんどいなくなり、それに伴って、 戦争放棄を謳う憲法9条の改正を容認する声も強まっているように感じられます。時の経過は、過去の重大事件を風化させてしまいます。
初代の教会でもこれと同様のことが起こっていました。コロサイの信徒の手紙が書かれたのは主イエスが十字架に架けられてから7~80年経った時代でしたが、時の経過とともに主イエスの十字架を直接目撃した人たちは、皆、世を去ってしまい、残された者たちにとっては、十字架の苦しみは、遥か遠くのおぼろな記憶として希薄化していったのです。礼拝で十字架が語られることがなくなったり、主イエスが十字架の上で苦しんだのは、人間の目にそう見えただけで、実際に「神の子」が苦しむことはないのだとうそぶく者たちまで現れました。
2 パウロとコロサイの信徒(展開1)
コロサイの教会においても、これと同様のことが起こっていました。コロサイはエーゲ海に面した現在のトルコ西部の主要な港町エフェソからおよそ200㎞ほど内陸に入ったところにある小さな町です。パウロ自身は、コロサイを訪れたことはありませんでしたが、コロサイに住んでいたパウロの協力者エパフラスからコロサイの教会の様子を聞いて、コロサイの信徒が強い信仰をもっていることを喜んでいました。ところが、当時のコロサイ教会は、大変危険な状況にありました。詳細はわかっていませんが、当時、コロサイの信徒の周りには、イエス・キリストを唯一の救い主とする信仰を否定する偽教師たちが活動していて、コロサイの集会内部にも入り込み、彼らの信仰は大きく揺さぶられていたのです。ところが、一方のパウロは、獄中に捕らわれの身であったため、直接、コロサイの教会を訪れることは叶いません。この手紙は、そのような状況の中で、獄中のパウロがコロサイの信徒たちに向けて、正しい信仰に踏みとどまるよう励ますために書かれたものです。コロサイの信徒を惑わす敵対者にしてみれば、パウロが獄中にあることは、パウロが信頼できない教師であると主張するための好材料となります。そのため、パウロは、この手紙の中で、まずは自分自身がどのような者であるかをコロサイの信徒たちに対して弁明しておく必要がありました。そこでパウロは23節で、あなたがたがエパフラスから聞いて信じた教えは、世界中至るところの人々に宣べ伝えられている確かな福音であると保証した上で、わたしパウロは、神によって、その確かな福音に仕える者とされたのだと断言します。だから、あなたたちは、今、色々な偽教師たちの語る教えによって揺さぶられているけれども、そうした人間の言い伝えにすぎない哲学や、むなしいだまし事に惑わされることなく、正しい信仰に踏みとどまりなさいと勧めています。
3 キリストの苦しみ(展開2)
さらにパウロは24節で、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」と語ります。実際、パウロはこの時、獄中にあって苦しんでいます。そして、その苦しみは、あなたがたコロサイの信徒たちのためであったのだと、手紙の受け取り手の心情に訴えます。パウロが獄に繋がれたのは、一度や二度のことではなかったようです。キリストの福音を宣べ伝える際には、各地で地域の人々や論敵たちと言い争い、騒動になって、投獄されるということも珍しくなかったのでしょう。それは、キリストの体である教会のためであり、福音宣教の果実であるあなたがた信徒のためであるというわけです。
さらにパウロは続いて「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」と語ります。これは、一見、イエス・キリストの十字架の死では信ずる人々すべての贖罪には不十分であると言っているようにも聞こえますが、そうではありません。22節で「今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と述べ、さらに、今日のテキストの少し前の14節で「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」と述べているように、パウロは、あなたがたは、御子の肉体の死によって、すでに完全に赦されており、今現在も罪が赦されている状態にありますよ。したがって、イエス・キリストの苦難は、既に死んだ人、そしてこれから生まれてくる人も含めたすべての人の罪を贖うのに十分で欠けのないものですよと主張しているのです。しかしながら、人々がその恵みに与るためには、誰かがその人にキリストの福音を宣べ伝えなければなりません。そして、イエス・キリストが天に挙げられた後、それを成すのはキリストの体である教会に他なりません。そして、教会がその働きを成すためには、当然に教会の礼拝の中でイエス・キリストの十字架の苦難と死が語られなければなりません。ところが、コロサイの教会では、そのことが疎かにされる恐れがあったので、パウロ自身がそのようなコロサイの教会の欠けたるところを是正したのです。パウロはそのことを「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」と表現したのだと思います。
4 神の秘められた計画(展開3)
さて、26節から27節にかけて、「秘められた計画」という言葉が、2度、3度と出てきます。この「秘められた計画」とは、どのような計画なのでしょうか。パウロは、コリントの信徒への手紙一2章6節以下でイザヤ書64章3節と65章17節を一部引用して「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」と記しています。それは、第一義的に、神がその独り子を世に遣わし、すべての人の罪を贖うために十字架に架けられたことを指しています。そして、「世の初めから代々にわたって隠されていた秘められた計画」とありますように、その計画は、旧約聖書の預言者たちにも具体的にいつどのようにして成就されるかは隠されていましたが、「今や、聖なる者たちに明らかにされた」とありますように、それは、イエス・キリストの福音を受け入れた者たちに明らかに示されたのです。また、ローマの信徒への手紙11章25~26節に、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになった のは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」と記しているように、キリストの救いは、ユダヤ人だけではなく、コロサイの信徒たちも含めた異邦人全体に及び、ついには私たちにも及んでいるのです。それが異邦人にとってどれほど大きな喜びと希望をもたらす計画であるかは27節に記されている通りです。
そして、神さまの秘密の計画は、それだけに留まりません。こんな話があります。
第二次世界大戦中、ヨーロッパのある町が激しい爆撃を受け、古い教会も瓦礫と化してしまいました。やがて戦争が終わり、人々が復興作業を進めていると、瓦礫の下から、かつて教会の祭壇近くにあって、人々に愛されていたキリスト像が発見されました。ただ、残念なことに、像はひどく損傷し、頭部や胴体は残っていましたが、両手が完全に失われていたのです。町の人々は像をどうしたらよいか、集まって相談しました。「手のないキリスト像をそのまま置くわけにはいかない」、「修理して置くことにしよう」、「同じ彫刻家に頼んで新しい像を作ってもらおう」、「いや、戦争の悲惨さを示すために、このまま残すべきだ」。議論の末、像は手のないまま残すことになり、像の台座には新しく次の言葉が刻まれました。「キリストには、あなたの手以外に手はない。」
人々はこの像を見るたびに思い起こすようになりました。キリストが地上で行った愛の業は、今は 教会に集う私たちの手によって続けられなければならないのだと。
大切な記憶が忘れ去られそうなとき、なかったことにされてしまいそうなとき、私たちはどうすれば希望を持ち続けられるのでしょうか。
神さまは、そんな時代を見越して、もう一つのある秘密の計画を用意されました。それは、時代を超えてそのメッセージを受け継ぎ、実際にこの世界の中で現わしていく人を世に送り出すことです。忘れてはいけない大切なことを、自らの言葉と生き方を通して次の世代へと語り継いでいくことです。それこそが、キリストの十字架という希望の風船をしぼませないための神さまの秘密の計画なのです。
5 苦難を受け入れて喜びを得る(結論)
パウロは、この神 さまの秘密の計画に応えて、教会に仕え、キリストを宣べ伝え、すべての人がキリストに結ばれて完全なものとなるように、知恵を尽くして人を諭し、教えました。コロサイの教会が誤った教えに惑わされないように手を尽くしました。しかしそれは言わば闘いですから常にうまくことが進むわけではなく、深い挫折や苦しみを感じることもあったでしょう。けれどもパウロは、その労苦を喜びと感じていました。何故でしょうか?
パウロは、イエス・キリストの十字架の死が、実はキリスト者を迫害した自分の罪をも贖うものであることを知らされ、そればかりか自分を使徒として用いてくださった神の愛に触れ、それがどんな辛い労苦であったとしても、その愛に応えることに無上の喜びを感じたのではないでしょうか。
このように、キリストの体である教会に仕えることに伴う労苦は、その労苦自体が、キリストが自分を召し出し、用いてくださっているということ、しかも、その労苦のために自分のうちにキリストが力強く働いてくださっていることを実感することの出来る喜びなのだということが、まず言えるでしょう。そして、その労苦が報いられ、キリストの体としての教会の働きが形として現れるとき、例えば、キリストの福音を伝えた人が求道生活を始め、やがて信仰告白して新たに教会に連なる者となったとき、教会は大きな喜びに満たされることで しょう。そして、その喜びの大きさは、大きな教会が年に数人の受洗者が与えられた時の喜びよりも、頑張っても中々思うように伝道が進まない小さな教会が数年かけてやっと一人の受洗者が得られた時の喜びの方が勝るのではないでしょうか。
そして、教会における労苦の最大の報いは、たとえその労苦がこの地上で形になることなく終わったとしても、天上における永遠のいのちという究極的な喜びが約束されているということです。それは、世の初めから代々にわたって隠されてきた秘められた計画で、キリストによって、今や、信ずる者たちに明らかにされた喜びなのです。
教会の使命には、主が再臨される日までは終わりはなく、そこに連なる者の苦闘にもありません。けれども、そこに働くキリストご自身の働きにも限界はなく、常に私たちと共にいて力づけてくださいます。そのことを胸に、喜びに満たされて信仰生活を力強く歩んでまいりましょう。
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