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過去の説教

2026年9月20日

「ただ一度の完全ないけにえ」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第18主日) 2026.9.20 杉野信一郎

「ただ一度の完全ないけにえ」

  • 聖  書 ヘブライ人への手紙9章23~28節

  • 中心聖句 ヘブ9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

  • 讃 美 歌  こ121、513、452


1 見える現実と見えない現実(導入)                             

今日、示されたヘブライ人への手紙は、実は、著者も執筆年代も特定されておりませんし、手紙という名称が付けられていますが、最終章の挨拶文を除けば手紙らしくもなく、不明な点の多い文書です。ただ、その内容からして、おそらく書かれたのは紀元1世紀の末頃で、ヘブライ人を中心としたローマの教会で読まれることを想定した説教集のようなものではないかと思われます。

当時、まだごく小さな群れに過ぎなかったローマの教会は、皇帝ネロによる厳しい迫害に晒されて、信仰を大きく揺さぶられ、教会を離れて、もとのユダヤ教の信仰に戻っていった信徒たちも少なくなかったであろうと思われます。そのような厳しい状況に置かれている教会を何とかして励まし、キリストの教会として立たせていこうとしてこのヘブライ人への手紙が書かれたのだろうと思います。

そのための手法として著者が取った方法は、見える現実に対して、もう一つの見えない現実を対峙させるという方法です。見える現実とは、歴史的事実として目の前で起こっている出来事です。しかし、そのような現実に対して、もう一つの現実があります。それは、現実の歴史に介入するようにして関わって来られた神の救いの現実、その頂点としてのキリストの十字架による救いの完成の現実です。問題は、この二つの現実のうち、どちらが確かなものなのかということです。これは、当時のローマの教会だけの問題ではありません。私たちもまた、様々な現実に直面し、信仰が揺さぶられる経験をします。目に見える現実よりも、十字架のイエスの現実の方が確かであるという確信が持てなければ、信仰生活を続けていくことは難しいだろうと思います。それゆえに、この手紙の著者は、その確信を与えることに全力を尽くしているのです。

 

2 天上の礼拝と地上の礼拝(展開1)

著者が今日の箇所で行っていることは、天上の出来事と地上の出来事を対比させて示すことです。23節で「天にあるものの写し」と言っていますが、これは、地上の神殿にある聖所のことを指しています。あると言いましたが、実は、ユダヤの人々が長い間、神を礼拝する場所としてきたエルサレムの神殿は、この手紙が書かれる少し前の紀元70年にローマ軍によって崩壊してしまいました。しかし、手紙の著者は、地上の聖所は天の聖所の写しにしか過ぎないと語り、天上の聖所こそが神を礼拝する本来的な場所であることを読者に気付かせようとしているのです。そのことによって、たとえ地上の聖所がなくなったとしても、神の救いは確固として失われることはないのだということに気付かせようとしているのです。そして、手紙の著者は、今日の箇所までのところで、神の救いの歴史が、一貫してこの世の歴史的出来事の中に貫かれていることを述べ、そのことを通して私たちの救いが確かなものであることを語ってきたのですが、これからは、この地上の出来事が、単に地上の出来事として存在しているのではなく、天上の出来事とのつながりにおいて存在していることを示そうとしているのです。私たちの目が、この地上の見える現実にだけ奪われてしまうのではなく、もっと高く、もっと広く、天上の出来事からこの地上の出来事を見るように、導こうとしているのです。

著者は、続いて清めについて説明しますが、「天にあるものの写し」という言葉によって、著者がこれまでのところで述べて来た清めの事柄が、単に地上の事柄ではなく、また、地上で完成する事柄でもないことを明らかにしていきます。

ユダヤの人々は、これまで長い間、律法の定めに従って、地上の聖所で礼拝を献げてきました。その様子が、今日の箇所の直前の9章2節以下に記されています。すなわち、聖所と呼ばれる幕屋の中に、燭台、机、供え物のパンが置かれました。その幕屋の中に垂れ幕があり、その後ろ側には至聖所と呼ばれる幕屋がありました。至聖所には、金の香壇と金で覆われた契約の箱があり、その中にはマンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、箱の上には一対のケルビム像が置かれていました。そして、第一の幕屋では祭司たちが入って礼拝を献げていましたが、第二の幕屋には年に一度だけ、大祭司が入って供え物といけにえを携えて礼拝を献げました。大祭司が至聖所である第二の幕屋に入る時には、自分自身を清めるためと、民の過失の罪を清めるための血を必ず携えて行きます。これらは律法、すなわち神がモーセを介してイスラエルの民に与えられた旧い契約に基づく礼拝の定めですが、これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関する肉の規定であるので、礼拝するものの良心を完全にすることは出来ないと、著者はその限界を語っています。そして、この旧い契約に基づく地上の聖所における礼拝に限界があったが故に、旧い契約は新しい契約に移行せざるを得ませんでした。

 

3 一度だけの完全な犠牲(展開2)

新しい契約とは、バビロン捕囚という神の裁きの厳しさを味わうことになるイスラエルの民に対して預言者エレミヤを通して神が約束されたものですが、それが具体的にいつ、どのようにして与えられるかは語られませんでした。イスラエルの民は、バビロン捕囚の苦しみを味わってから、新しい契約が結ばれる日を待ち続けることとなりました。最初の契約が結ばれてから、新しい契約が預言されるまで六百年、さらにそれがキリストによって実現されるまで六百年掛かりました。それだけの年月をかけ、最初の契約を無効にしてまで、神は私たちを救う業を遂行してくださったのです。

旧い契約では、大祭司が毎年、清めの動物の血を携えて至聖所に入り、民の罪の贖いのためにその血を献げましたが、新しい契約では、イエスが十字架の死によってただ一度ご自分の血を神に献げることによって、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ただ一度の犠牲とは、完全な犠牲という意味です。もしそうでなければ、天地創造の時から、アダムとエバが罪を犯した時も、カインがアベルを殺した時も、その度ごとにキリストは死なねばならなかったはずです。しかし、実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。ここで「罪を取り去る」とは「罪を無効にする」という意味です。罪がまだ残っていたとしても、過去に犯された罪、今犯している罪、これから犯す罪、そのすべての罪が贖われているのです。

ところで、24節では、キリストは、この贖いの御業を、人間の手で造られた地上の聖所ではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったと述べています。そしてそれは、23節によれば、天にあるもの自体は、地上の聖所で大祭司が献げるいけにえよりも勝ったいけにえによって、清められねばならないからだというのです。しかし、ここで天にあるもの自体を清めるとは、どういうことか。天にあるものが、清めを必要とするだろうかという疑問が生じます。恐らくこのことは、私たちが地上の教会で献げる礼拝と関係しているのだろうと考えられます。先ほど、地上の聖所のことを天にあるものの写しと言っているのは、地上の清めの事柄が単に地上の事柄ではなく、また、地上で完成する事柄でもないことを明らかにするためだと述べましたが、そのように考えた時に、天上における清めとは、私たちが地上の教会で献げる礼拝が、この地上の出来事でありながら、同時に天における出来事と直結するものとして用いられるということを示しているのだと考えられるのです。旧約聖書の時代においても、人は神を礼拝することは出来ましたが、イエス・キリストがこの地上に来て、御自分の血によって私たちの罪を完全に贖ってくださった後には、より直接的に私たちは神を礼拝することが出来るようになったのです。先ほど、今日の招きの言葉として、司式者にローマの信徒への手紙12章1節の御言葉を読んで頂きましたが、このように言われていました。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」私たちが毎週の礼拝に出席することは、私たち自身を神に献げることでありますが、しかし、私たちは自分の体を自ら聖なるものとして清めることはできません。それが出来るのは、天の父なる神のもとにおられるイエス・キリストただおひとりです。天上の聖所に入られたイエス・キリストは、神と私たちの間の仲介者となって、私たちを清めて聖なるものとしてくださって、神の御前に立つ者としてくださっているのです。そのことによって、私たちは、キリストとともに神に知られ、神に愛される者となったのです。

 

4 再臨の希望に生きる(結論)

最後に著者は、27節から28節のところでこう述べています。

「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」

イエスさまが、ご自分を待ち望む人々の前に、二度目に現れてくださるのは、もう一度、私たちの罪を負ってくださるためではありません。私たちの罪は、イエスさまが最初に来られたとき、もうすっかり赦されているのです。イエスさまが二度目においでになるとき、つまり終わりのときに、イエスさまを待ち望む私たちにもたらされるのは、裁きではなく、永遠の救いであると、今日の御言葉は告げています。先ほどの聖書の話で、終わりの時にイエスさまはすべての人を裁かれるとお話しましたが、その判決は、言い渡されるその前から、すでに決めておられるのです。信じる者が一人も滅びることなく永遠の命に与ることができるように、イエスさまはこの世に遣わされ、ただ一度の完全ないけにえとなって、私たち信ずる者の罪を贖ってくださったからです。だから、弱ったり、疲れたりしても、人生を最後の最後まで、忍耐と信仰をもって歩み抜こうではありませんか! この手紙はそんな希望の励ましをもって、わたしたちに語りかけています。

ここに集められた私たちは、老いた者も若い者もみな、神の家族として一つとなり、イエス・キリストが私たち一人ひとりのもとに再びやって来られる終わりのときに、私たちへの救いの恵みが満ちあふれるほどにもたらされるという希望につながれています。そのような希望を持って、終わりのときを、イエスさまが再びやって来られるときを、人生最後のときを、喜びと感謝をもって心から待ち望む者となりたい、そう願う次第です。

日本基督教団 横須賀上町教会

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