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2026年9月13日
「惜しまず豊かに蒔く人」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第17主日) 2026.9.13 杉野信一郎
「惜しまず豊かに蒔く人」
聖 書 コリントの信徒への手紙二9章6~15節
中心聖句 Ⅱコリ9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず 豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
讃 美 歌 こ92、519、567
1 献金のススメ(導入)
「つまり、こういうことです。」とパウロは、今日読まれました箇所の冒頭のところで、一言でまとめて言います。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」これは、献金についての教えです。パウロは、種を蒔く人のたとえを用いて、豊かに献げることの大切さを訴えているのです。けちけちしてわずかしか蒔かない人は収穫もわずかです。多くの収穫を刈り入れたいと願う人は、多くの種を蒔かなければなりません。このことから、豊かな実りを得たいと願うのであれば、多くのものを献げなさいという勧めです。そう言われるとどうでしょう。皆さんの中には、困惑を覚える方も少なくないのではないでしょうか。昨今、宗教団体が信者に多額の献金を献げる よう強く勧めて、その結果、信者の生活が破綻し、家庭の崩壊を招いたということが大きな社会問題となりました。そのようなことがあって、教会が信徒に献金の勧めを語ることが憚られる風潮が生じているのではないかと思いますが、今日は、献金について、聖書はどのように教えているのかを、パウロの言葉から読み取ってまいりたいと思います。
2 惜しんでわずかしか種を蒔かない者(展開1)
「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」という言葉は、「たくさん献げる人は、見返りも大きい。」という風に聞こえます。この言葉は、実は、旧約聖書の箴言11章25節の御言葉の引用だと言われておりますので、元の箴言の言葉を見てみますと、「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う」となっていて、献金について述べているわけではありませんが、やはり、他人に気前よく施す人は、見返りも大きいという人生訓が語られているようです。
パウロは、そこに「惜しんでもわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずか」だという言葉を足しています。彼がこの言葉を足したのは、この手紙の読み手であるコリントの教会の信徒たちが、惜しんで献金をわずかしか献げないのではないかという心配をしているからです。私たちも様々な献金をしますが、最も大きな問題や悩みは「惜しむ心」です。自分の懐具合を見ながら、いくら献げようかとか、他の教会や団体にまで献げるのは止めておこうかとか、思うことがあるのではないでしょうか。コリントの教会は、パウロが求めたエルサレム教会への献金に真っ先に取り組み、テサロニケやフィリピなどの教会を奮い立たせるほどであったのですが、途中で挫折してしまったのです。献金がストップしてしまった背景には、パウロが献金を私的に利用しているのではないかといった誤解や、偽教師による誹謗中傷など、様々な理由があったと言われていますが、パウロは裕福なコリントの信徒たちが「エルサレム教会に献げたら自分たちの分が減ってしまう」という損得勘定に捉われていると感じていたのかもしれません。
パウロは続く7節で、献金に対する基本的な態度として四つのことを語っています。
第一に、献金は「不承不承で」してはならないということです。献金はいやいやながらではなく、献げたいという気持ちをもって献げるものであるということが大切です。第二に、献金は強制されてするものではないということです。パウロはここで献金の勧めはしていますが、献金を強要しているわけではありません。教会も、献金の勧めはしますが、あくまで献げる人の自由意志によって献げるものであると説明しています。けれども、その勧めを強制と感じる人がいるかもしれませんので、十分気を付けて勧めをしなくてはなりません。第三に、献金は「こうしようと心に決めたとおりに」すべきものです。献金をいくら献げるかということについては、聖書は献げ物の基準として、与えられたものの十分の一ということを示していますが、あくまで基準ですから、それを尊重しつつも、自分の経済状態や立場、さらには教会の経済状態などを考慮して、自分自身の信仰の決心としてふさわしい額を献げることが大切です。また、教会では災害救援をはじめ、様々な社会問題の課題等に対して献金を募ることがありますが、そのすべてに対して応えることは困難ですから、その中で何にいくら献げるかは自分自身の信仰に照らして自ら決めることが大切です。そして、第四に、献金は「喜んで」献げることが大切です。献金を受け取る側にとって献金が満たされることは喜びですが、その一方で、献げる側にとっても献金は喜びを感ずることができるのです。母の日や父の日の子どものプレゼントのことを考えてみてください。子どもたちは、誰かから強制されたわけでもなく、しぶしぶでもなく、何かも見返りを期待してでもなく、ただ純粋にプレゼントすること、或いは相手に喜んでもらうことを喜んでいます。そのように献金も、献げること自体に喜びを感じて献げるべきものなのです。旧約の律法もまた、与える際には喜んで与えることを求めています。例えば、貧しい人への施しを命じた申命記15章には「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」と書かれています。喜んで与える人は、神から祝福が与えられていることを知っている人です。神の恵みが、自分に対して豊かに与えられていることを感謝しているからこそ、喜んで与えることができるのです。私たちは、神が与えてくださった恵みをしっかり受け止めて、感謝して、喜んで与える者となる必要があるのです。
このように、献金で大切なことは、単に金額が多い少ないということではなく、むしろそれを献げる人の心の姿勢、信仰の姿勢です。
3 神の豊かな恵み(展開2)
続く8節から10節には、献げる者、献金に励む者に約束されている神の豊かな報い、祝福が述べられています。8節にはこう書かれています。
「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
ここで「すべて」という言葉が繰り返されているように、神の恵みは、ただ単に財貨の豊かさに限定されるものではありません。私たちは、誰しも豊かで満たされた生活をしたいと願うものですが、しかし、私たちが頑張ってお金を稼ぎ、蓄財に励んだとしても、それで必ずし も私たちの生活が本当に豊かになるわけではありません。有り余るほどの財産を持っていたとしても、明日、命を奪われるとしたならば、それが何の足しになるでしょうか。健康であったり、喜びや悲しみを分かち合える友がいたり、尽きることのない希望を持つことが出来なければ、私たちの心は満たされることはないでしょう。それらのものは、決して自分の力や努力で手にすることは出来ません。それどころか、自分の力や努力で勝ち取ったと思われる財産や日々の糧すら、本当は神が与えてくださったものではないでしょうか。神だけが本当の意味で、あらゆる恵みを私たちに満たすことが出来るのです。
さらに9節でパウロは、詩編112編9節の御言葉を引用して、惜しまず豊かに献げることの大切さを強調しています。引用した詩編の文には主語はなく、パウロは主語を「彼」としていますが、これは詩編の文脈から「主を畏れ、主に信頼する人」のことを指しています。また、「慈しみ」と訳されているギリシア語ディカイオシュネーは「義」とも訳せる言葉ですから、ここの意味は、「主を畏れ、主に信頼する人は、惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。その人の義は永遠に続く」となります。
続く10節は、イザヤ書55章10節からの引用です。元のイザヤ書では、このように書かれています。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。」
つまり、雨を降らせ、大地を潤す神は、種を蒔く人に種を与え、あなたがた食べる人にはその実りを糧として与える。そして、あなたがたが神から頂いた種を蒔くならば、神は、より大きな収穫、慈しみが結ぶ義の実を与えてくださるというのです。
4 献金が教会にもたらすもの(結論)
さて、パウロはこれまで献金が献げる人にもたらす実りについて語ってきましたが、11節から14節のところでは、献金が教会にもたらす実りについて四つのことを語っています。
一つは、献金が現実的な必要を満たすということです。12節の「聖なる者たち」というのは、エルサレム教会の人たちのことを指していて、パウロが求めて来た献金がエルサレム教会の信徒たちの困窮を救済するために役立つものであることを表しています。しかし、献金がもたらすのは、具体的な経済的必要を満たすということだけではありません。二つ目の実りは、11節の後半に書かれている「神に対する感謝の念」です。そして、この神の対する感謝の念は、献金を受け取ったエルサレム教会だけでなく、そのことを伝え聞いた多くの教会にも広がり、献金の活動もますます盛んになっていくというのです。さらに、三つ目として、13節で、献金が実際に行われた結果として、神への賛美が引き起こされると言います。献金を受け取ったエルサレム教会の信徒たちは、コリントの信徒たちの信仰が本物であることを知って、神をほめたたえるというのです。さらにパウロは四つ目として、14節で「彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」と語ります。当時、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間には、不信感と対立がありましたが、この献金によって、両者の間に新しい絆が生まれます。彼らを受け入れ、彼らのために祈るようになります。このように、この献金は、教会の交わりと一致を生み出していくのです。このことこそが、パウロがエルサレム教会への献金を熱心に推し進めてきた最大のねらいです。教会はキリストの体ゆえ、教会は一つである。それゆえパウロは、一つなる教会の「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ」助け合うべきだと考えていました。パウロは、献金とは、実際的な不足を満たす経済的な行為であるだけでなく、教会がキリストの体として真に一つとなるための霊的な行為であると捉えたのです。そして、パウロは、コリントの教会の信徒たちがこの手紙の切なる訴えを通して、必ずや、エルサレム教会への献金は再開され、実現することを確信して、「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」との言葉をもってこの献金の議論を結んだのです。
私たちも、このことを深く心に刻み、神から私たちに与えられているあらゆる恵みに感謝し、私たちの献金がキリストの体なる教会の一致とその働きのために用いられること、そして、献げる私たちがそのことに参与できることに喜びを感じて、全国、全世界のキリスト者たちと共に、献げる信仰生活を歩み続けていきたいと思います。
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