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過去の説教

2026年9月6日

「み恵を受けた今は」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第16主日) 2026.9.6 杉野信一郎

「み恵を受けた今は」

  • 聖  書 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

  • 中心聖句 ガラ1:4  キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

  • 讃 美 歌  こ91、399、536


1 ガラテヤの信徒への手紙(導入)

今日の礼拝では、ガラテヤの信徒への手紙の冒頭の箇所が読まれました。ガラテヤの信徒への手紙は、パウロが小アジア、現在のトルコにあるガラテヤ地方の諸教会に宛てた手紙です。パウロは、最初の伝道旅行で、キプロスから海を渡ってピシディア州のアンティオキア、リカオニアのイコニオン、リストラ、デルベの町々を回り、第二回伝道旅行で、キリキア、デルベ、リストラを回り、そこから北に進んでフリギア、ガラテヤ地方を巡りました。この手紙の4章13節以下の記述を見ますと、ガラテヤの人々は、パウロが最初に訪れた際に、パウロが伝えた福音を歓迎して受け入れたことがうかがえます。さらに、二度目の訪問の際にも5章7節でパウロが「あなたがたはよく走っていました」と語っているように、引き続きパウロの福音に従って歩んでいたことがうかがえます。ところが、その後、ガラテヤの諸教会にパウロの教えとは異なる福音を語る反対者がやって来て、教会内に混乱が生じたので、その問題を解決するために、パウロはこの手紙を書いたのです。

パウロは、少なくとも聖書に掲載された手紙を少なくとも7つ書いていますが、いずれも挨拶の言葉で始め、続いて感謝の言葉を述べた後、本論を展開し、最後に結びの言葉をもって閉じられるという、当時のギリシア・ローマの書簡の定型に従って書かれています。ガラテヤの信徒への手紙も、ほかのパウロの書簡と同じく、最初の挨拶で、手紙が使徒パウロからのものであることが書かれていますが、このガラテヤ書では、その使徒パウロが「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたパウロ」と、自分が人からではなく、イエス・キリストと父なる神から直接使徒とされた者であることが強調されています。当時、そして現代でもそうですが、その人がどれほどの人物であるかを証しするには、有力者や権威者の弟子だとか推薦状やお墨付きを得ることが一番手っ取り早い方法でした。回心前のパウロについて言うならば、「私はラビ・ガマリエルの一番弟子です」と言えば、皆が一目置くことになるわけです。そして、出来て間もないキリスト教会で言えば、初代エルサレム教会の重鎮であったヤコブやペトロの推薦状を持っていれば正当な教師であると容易に見做されたことでしょう。しかし、パウロは、自分は如何なる人の権威も借りるつもりはない。自分は、イエス・キリストと父なる神によって直接使徒とれた者だと言うのです。パウロがこのように言うのは、ガラテヤの教会の中に、「パウロは、イエスの直弟子でもなければ、生前のイエスに師事していたわけでもなく、キリストの迫害者から突然回心して、だいぶ後になってから弟子になった者であり、使徒としての資格がない者だ」というパウロの反対者たちによる主張が広まっていたという事情があったからです。

 

2 パウロの信仰告白(展開1)

3節の「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」という言葉は、手紙の冒頭のあいさつを締めくくる頌栄の言葉です。通常は、この言葉をもって挨拶を終えるのですが、ガラテヤの信徒への手紙では、更に4節、5節が続いています。4節は、パウロの信仰告白と言える言葉です。核となる「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」という言葉は、イエス・キリストの十字架の出来事を贖罪と捉える初代教会で言い伝えられた信仰告白の言葉です。パウロはこれに加えて、「この世の悪からわたしたちを救い出そうとして」というパウロ独自の信仰告白を付加しています。ここでパウロが言っている「この世の悪」とは、どういうことでしょうか。「悪」というと抽象的で、何を悪と考えるかは一人ひとり違うと思いますが、主イエスが友となられた貧しい人々や虐げられた人々、世の中の弱者と見られる人々の視点に立って見るならば、様々な差別がある抑圧的な社会を意味していると見ることが出来るでしょう。また、異邦人伝道に目を向けたパウロは、異邦人を神の救いの外にある人々と見るユダヤ教の教えに差別的な分断の壁を見たのかもしれません。キリストの十字架の死は、そのような差別的な社会にある分断の壁を打ち壊して、人種の違いを超えてすべての人に救いをもたらすものだということを言い表しているのではないでしょうか。

 

3 キリストの福音とほかの福音(展開2)

6節からは、早速本題に入ります。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」パウロは、ガラテヤで福音を宣べ伝え、ガラテヤの人々は、パウロが語った福音を素直に受け入れて教会を形成し、パウロが2度目に訪問した際も、その信仰の道をまっすぐに歩んでいたのでした。ところが、パウロがガリラヤを去った直後に、パレスチナ本土のユダヤ人キリスト者の教師がガラテヤを訪れて、パウロが伝えた福音とは異なる教え、「モーセの律法に従って、割礼を受けなくては救われない」と教えたのです。パウロは、そのことに対して、感情を露わにして非難しています。「あきれ果てている」という言葉には、驚きと怒りさえ感じられます。パウロは、なぜ、そこまで感情を露わにして、このことを問題視したのでしょうか。パウロが宣べ伝えた福音は、「十字架につけられたキリスト」でした。パウロは、コリントの信徒への手紙一で「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めた」と書いているように、救いは、ただ十字架につけられたキリストを信じることのみによって救われるという福音を伝えたのです。それに対し、後からやってきた反対者たちは、それだけでは救われない。信じるだけでなく、もう一つ何かをしなければ救われないと教えたのです。パウロという指導者が去って、信仰生活に乱れが生じていたガラテヤの教会の人々は、この教えを受け入れる隙が生じていました。キリストを信じて罪を赦され、義とされた者が、信仰生活の中で律法に書かれているような神の民としてふさわしい行いを重ねていくことは「聖化」と言って、信仰者の生き方としてふさわしいことですが、それは決して救われるための条件ではなく、救われたことに対する応答です。パウロの反対者のように、人間の良い行いが救われるために必要だとする教えは、キリストの十字架の死だけでは救われないと言って、キリストの十字架の死の意義を貶めるものであると同時に、救われるためには人間の行い、努力が必要だ、それが足りなければ救われないという律法主義的な福音です。それはもはや福音と呼べるものではなく、「キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」と言って、パウロは非難しているのです。

 

4 み恵みを受けた今は(結論)

ガラテヤの諸教会をめぐっては、キリストの十字架の福音を受け入れた者たちが、それに加えて律法の教え、とりわけ割礼を受けることが救われるために必要ではないかということが問題となりました。割礼が必要かどうかという問題は、現代の非ユダヤ世界に生きるわたしたちにとっては、あまりピンとこない、関わりのない問題ではないかと思われるかもしれません。確かに割礼をはじめ、食物規定や安息日の規定など、モーセの律法の規定の中にはほとんど私たちの生活とは縁のない項目がたくさんあります。しかし、主イエスは、律法を廃止するのではなく、そうしたモーセの律法の規定で最も大切な教えとして神を愛することと隣人を愛することの二つに集約して、完成されました。ですから、私たちキリストを信ずる信仰者に求められているのは、この二つの愛の掟だけと言ってよいでしょう。しかし、それは簡単なことのようでいて、実はその掟を全うすることはとても困難なことです。私たちは、いつも神を愛しているかと問われれば、神の存在すら意に介していない時の方が多いくらいですし、思いもしない艱難に遭遇した時は、神を愛するどころか、神を恨んだり、神がおられることを疑ったりさえします。また、隣人を愛しなさいと言われても、身近な親しい人たちは愛せても、遠い世界の国で貧困や差別、災害などで苦しんでいる人々がいることを忘れがちでありますし、知っていても、具体的に救いの手を伸ばすことがまれであったり、それらの友のために祈ることさえ怠りがちであるのが現実です。また、自分や自分の愛する者に危害を加えたり、敵意を抱いている人を愛することも中々出来ることではありません。そんな私たちは、神の救いに与ることは出来ないのではないかと心配になります。でも大丈夫。私たちは、キリストの十字架の福音を受け入れて、信仰を告白して洗礼を受けた時、私たちは救われた者とされているのです。それはただ、神のみ恵みです。そこに、私たち自身の行い、努力、能力、功績といったものが関わる余地は一切ありません。神は、私たちの罪をすべて赦し、罪人のままの私たちを受け入れて、救い主である主イエス・キリストにつながっている限り、永遠の命に与る者としてくださっているのです。

ですから、そのような神のみ恵みを受けた今は、何も恐れることはないのです。ただ、神のみ力により頼んで、主のために進みゆけばよいのです。主イエスが求められた愛の業に励んでいけばよいのです。我が身をすべて主に委ねて、ただ主のみ旨を聴いて、喜んで主に仕えるのです。十分なことは出来ないかもしれません。こんなことしか出来ないと情けなく思うほど無力に感じることもあるでしょう。でも、神はあなたの能力や働きによって差別される方ではありません。ぶどう園の労働者のたとえを思い出してください。ぶどう園の主人は、午後5時頃に雇って夕方までのわずかな時間働いた人にも、朝9時に雇ってそれから夕方まで働いた人と同じ賃金を払いました。神は、最も働きの少なかった者にも同じようにしてやりたいのだと言ったぶどう園の主人のように気前の良いお方なのです。

だから、神のみ恵みを受けた今、私たちは、恐れることなく、たゆみなく、声高く歌いながら、み恵みに生かされて、主に従って歩んでいこうではありませんか。

日本基督教団 横須賀上町教会

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