top of page
Mask group.jpg
Frame 1841.jpg

過去の説教

2026年8月30日

「神の賜物」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第15主日) 2026.8.30 杉野信一郎

「神の賜物」

  • 聖  書 コリントの信徒への手紙一12章27節~13章13節

  • 中心聖句 Ⅰコリ12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

  • 讃 美 歌  こ85、201、505


1 コリントの教会の実情(導入)

今日、お読み頂いたコリントの信徒への手紙一の13章は、「愛の賛歌」として有名で、キリスト教式の結婚式でよく読まれる箇所です。またこの箇所は、イギリスのダイアナ元妃の葬儀で、ブレア首相が弔事として読み上げたことでも知られています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」クリスチャンであれば知らない人はいないと言っていいほど有名な御言葉ですが、しかし、今日の聖書日課は13章だけでなく、その前の12章27節から読むように示されています。それは、13章の「愛の賛歌」だけを切り取って読んだ時にはわからない、「愛の賛歌」が置かれている文脈を理解することによって、「愛の賛歌」の本当の意味を知ることが出来るからです。

なぜ、この「愛の賛歌」がコリントの信徒への手紙に書かれたのか。それは、実は、コリントの教会の信徒たちに「愛の賛歌」を示さざるを得ないような状況があったからです。

コリントの町は、当時、ローマの植民都市の一つで、人口約60万人を擁する大都市で、東西に通じる貿易港であり、豊かな富と文化が集まる自由で開放的な街でした。それだけに、自由で多様な考え方があり、それが教会の中に入り込み、それによって教会内部に様々な問題が生じていました。「私はパウロに」、「私はアポロに」という派閥争いがありました。「父の妻を自分の妻にしている」というような倫理的、道徳的な乱れもありました。今日の箇所の直前の12章14~26節は先月の礼拝で取り上げましたが、そこでは教会が一つの体、教会を構成する人々が体の様々な器官に喩えられ、それぞれが違った賜物を持って働くものとして説明されていました。そのことが今日示された箇所の冒頭の27節でパウロは「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」と語りました。そして、教会を構成する様々な働きをもった人々、使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持った者、貧しい人々を援助する者、教会の経理や書記といった管理的な働きをする者、異言を語る者など、それぞれが互いに助け合って、喜びや苦しみを共有するものだということが解かれています。ところが、コリントの教会の実情はどうかと言うと、その関係がうまくいっていなかったのです。例えば、異言を語る人々が、自分たちは聖霊を受けているが、あなたがたはそうではないと見下す傾向がありました。使徒や預言者、教師などの指導者たちは、自分たちは教会の頭脳であって、ほかの人たちのような単なる手足ではないといって、威張り散らすということもあったようです。それから、様々な奉仕をする人たちも、「私はこんなに奉仕しているのに、あの人たちは何もしない」といって、教会員同士がいがみ合うということもあったようです。こうしたことは、何もコリントの教会だけの特殊なことではなく、今日の教会でも、よく見られることで、そのような教会員の姿を見て信仰に躓く人が出てくるということは、古今東西を問わず、多くの教会を悩ます問題であると言えるでしょう。神によって教会に招かれた人々は、与えられている様々な賜物を用いて教会に仕え、それによって教会は豊かな働きを成すことができるのですが、その賜物の故に、互いに攻撃し合い、貶め合うという危機的な状況が生じているのです。そのような状況を憂いてパウロは31節で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧めています。そこで言われている「もっと大きな賜物」とは何か、それが「愛」です。愛こそが熱心に求めるべきものであり、この愛がなければすべての行為は空しいとパウロは語ります。それが13章の「愛の賛歌」なのです。

 

2 愛の賛歌(展開1)

コリントの教会の人々は、互いに自分の賜物(カリスマ)を誇り、自慢し合いました。しかしパウロは言います。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」どらやシンバルは、人々を陶酔に導くための道具として用いられました。単調なリズムを繰り返し、繰り返し聞くことにより自己催眠が始まります。黒人教会で歌われ始めたゴスペルも、同じ節が何度も何度も繰り返し歌われて、同様の効果をもたらしています。そのような陶酔によって、霊性が高まったように感じることが出来ますが、しかし、それは一時的なもので本物ではありません。パウロは続けて言います。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」たとえ牧師が熱情あふれる説教をして会衆が涙を流しても、それがその場限りの感動で終わるなら空しいし、教会で燃えるような祈りや賛美、証しがなされても、それが自己陶酔に終わったとすればそれも空しい。「全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」愛がなければ、すべての行為は無益だと言います。

そして、4節から有名な言葉が語られます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」全部で15の愛の特性が語られていますが、そのうち8つは否定形で書かれています。「ねたまない。自慢しない。高ぶらない。礼を失しない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みを抱かない。不義を喜ばない。」これらが何故否定形で書かれているのかというと、実はこの裏返しがコリントの教会を蝕んでいた問題点であったからです。妬みや高慢、無礼な振る舞い。他人を顧みず自分の利益ばかりを追求する姿勢。苛立ち、恨み。不義を愛する振舞い。パウロは、コリント教会の人々にこのような振舞いから転換するための賜物として愛を求めなさいと言っているのです。

 

3 教会の基盤である神の愛(展開2)

ですから、この「愛の賛歌」で歌われている「愛」は、本来は、結婚式の式辞などで語られる夫婦間、男女間の愛とはだいぶ違うのだということにお気づきになられたかと思います。実は、「愛」と訳されるギリシア語には、「エロース」、「フィリア」、「アガペー」の三つがあります。「エロース」とは、夫婦や恋人の間の本能的な愛、「フィリア」は仲間や友人の間に自然に湧き出る好感、友情としての愛、「アガペー」は、相手が誰であれ、その人として大切に思う気持ち。どれも大切な愛ですが、「エロース」と「フィリア」は自分の心の中から自然に湧き出る感情的な愛であるのに対し、「アガペー」は、私たちの中に本来存在するものではありません。だから他人の子どもは、自分の子どものようには愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。それは私たちの中に「アガペー」がないからです。「アガペー」は「神の愛」と言われます。「アガペー」は私たち人間にではなく、神に属する賜物なのです。だからこそ、パウロは自分に元々与えられている賜物よりももっと大きな賜物、神に属する賜物であるアガペーの愛を受け取るよう熱心に求めなさい、神の賜物を求めることこそ最高の道だと勧めているのです。

そして、このアガペーの愛こそが教会を教会として立たせる基盤なのです。だからこそパウロはキリストの体としての教会を形成するための道として、ここで愛を説いているのです。

 

4 神の賜物を求めて生きよう(結論)

最後にパウロはこう言います。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」。しかし、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

私たち信仰者は、信仰生活を守りつつ、主イエス・キリストの再臨を待ち望んでいます。そして神の国が来るとき、神は私たちと共にいます。もはや預言や異言を通して神を知る必要はありません。神が直接語りかけてくださるからです。しかし、その終末の時にも「愛だけは残る」と言います。何故なら、神は愛そのものであるからです。教会とは、やがて来るべき神の国を先取りする共同体です。現実の教会が、どのような問題を抱えていようとも、どれほど不完全で、醜い現実がそこにあろうとも、教会は先取りしている神の国なのです。私たちは、それぞれ自らのうちに罪を抱えたまま、この神の国共同体に招かれています。そして「わたしにつながっていなさい」と言われる存在です。だから、私たちはこの教会から離れません。つながっている限り、私たちは、肉の体、やがて滅びる肉の命とともに、神さまから与えられた永遠の命の道を歩み始めているのです。終わりの日に向けて、私たちは日々、自らの罪を悔い改めつつ、神様の愛の賜物をくださいと願いつつ、歩み続けるのです。今、現実に、教会にどのような問題があろうとも、それらは愛によって解決可能なのです。

私たちが教会で求めるべきことは、自分の救いではありません。何故なら、私たちは、神からこの教会に召し出された時に、既に救われているからです。私たちが、今、求めるべきことは、自分の利益ではなく、他者の利益を求めることです。第二次世界大戦中にナチスの迫害の中で獄死した牧師、神学者であるディートリヒ・ボンヘッファーは、獄中書簡の中でこう語りました。「教会は、他者のために存在する時だけ教会である」と語りました。私たちが教会で求めるべきことは、他者の救い、隣人の喜びです。そのために、私たちは、いつも神の賜物である愛を求めて歩む者でありたいと思います。

日本基督教団 横須賀上町教会

〒238-0017 神奈川県横須賀市上町2丁目3

© 日本基督教団 横須賀上町教会附属 めぐみ幼稚園 All Rights Reserved.

bottom of page