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2026年8月16日
「新しい生き方」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第13主日) 2026.8.16 杉野信一郎
「新しい生き方」
聖 書 エフェソの信徒への手紙4章17~32節
中心聖句 エフェソ4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
讃 美 歌 こ50、514、Ⅱ-196
1 盗むな、怒るな(導入)
今日も、先週に続いてエフェソの信徒への手紙の御言葉が示されました。前回、私は、エフェソ書と聞いて、何となく道徳臭い臭いがして嫌だなと思ったとお話しましたが、今日の箇所もまさしく道徳的な教えが書かれています。例えば28節、「盗みを働いていた者は、今からはしてはいけません。」確かに盗みは悪いことだからやってはいけないというのは当然ですが、盗みをする者はごく一部の人であり、自分には関係ないし、わざわざ言うほどのことではないのではないかと思います。それから31節、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」一切の悪意を捨てるなんていうことが出来る人間が果たしているのだろうか? 信仰があれば、イエスさまを信じていれば、怒りや憤りを捨て去ることが出来るというのでしょうか? そんなこと、はっきり言って、私には到底出来ないと思いますし、そもそも、この手紙を書いた著者自身も、異邦人のことを思いっきりそしっているじゃないですか。「異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」これがそしりでないと言えるのでしょうか? ユダヤ人以外は、愚かで、知性に欠け、無知だと言わんばかりです。この手紙を読んでいるエフェソの教会には、元々、その地方に住んでいる異邦人が大勢いました。彼らはこんな言われ方をしてどう感じたでしょうか。彼らには、まだキリストを信じるに至っていない親戚や友人がいたことでしょう。自分たちと親しい人々に対して、こんな言われ方をして、果たして素直に聞くことが出来たのか、私には甚だ疑問に思えます。そもそも、イエスさまだって、何度も憤っていたじゃないですか。ファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって、いつも手厳しい非難の言葉を掛けていたではありませんか。人々に向かって「蝮の子らよ」と言ったり、弟子に向かって「退け、サタン」と言ったりもしていたではありませんか。それなのに、私たちに「憤るな、怒るな、そしるな」と言われても、正直言って納得出来きません。私たちは、このことをどう理解したらよいのでしょう。そこで、もう少し丁寧にこの箇所を読み解いていきたいと思います。
2 エフェソの教会の状況(展開1)
はじめに、この手紙の宛て名となっているエフェソの教会の状況がどのような状況であったかを見てみたいと思います。エフェソは小アジア、現在のトルコの西部、地中海に面した大きな港町で、商業などで栄えていました。そこには昔からアルテミスという女神を祀る大きな神殿がありました。アルテミスの像にはたくさんの乳房があって、豊饒の神として多くの人々から崇められ、それが商売にも利用されていました。神殿には参拝した人を相手に不道徳な行為をする神殿娼婦と言われる人たちもいたようです。そのような町に、キリストの信仰が伝えられました。物言わぬ偶像ではなく、この私のために十字架に架かり、甦ってくださったイエス・キリストこそ真の神だ。その方は、今、私を愛し、私と共におられる。この福音の言葉を聞いて、この異教の地で新しい信仰の共同体が生まれました。それがエフェソの教会です。日本で言えば、伊勢神宮か出雲大社の門前に教会が建てられたようなものです。ですから、一度、信仰を告白して教会に連なる者となっても、常に周囲の異教的な教えや風習などに影響され、信仰が揺さぶられる環境にありました。常識とか、慣習の名の下で、キリストの福音が歪められていく。多神教の土地ですから、いつしかキリストも他の神々と並ぶ一つの神と考える者たちが出てきたり、礼拝に行くことを憚る者たちが出てくる。そのようなエフェソの状況を心配して、この手紙の著者は言います。「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」著者は「もはや、あなたはキリストと結ばれた存在でしょう?」、「もう、以前の偶像に思いを寄せていたあなたではない筈ですよね」、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」と、信仰の初心を思い出させようとします。
教会の中には一致がないという問題もありました。教会の中にはギリシア人もユダヤ人もおり、また、自由人も奴隷もいました。それぞれが教会の中でグループを作り、対立していました。教会はキリストの体でありますが、その体がばらばらになっているという危機的な状況にあったのです。25節、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。この「偽りを捨て」という言葉の陰に見え隠れするのは、表面的、形式的な信仰です。信仰的に尊敬を受けているような人が実は陰で人を裁いていたり、噂話など、真実でない言葉を語っていたりする。ありがちなことですが、それは結局人の心を深く傷つけ、教会の一致に亀裂をもたらします。そのことを案じて、著者は27節で「悪魔にすきを与えてはなりません。」と言います。駄洒落みたいですが、悪魔は「隙(すき)」が「好き」なのですね。私たちキリストによって召され、キリストの体の一部とされたものは、一つとなることが求められています。そのことが今日の箇所の少し前、3節以下に書かれています。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。」「努めなさい」と言うのは、油断すれば、一致に隙が生じてしまうということです。
3 盗んではいけない(展開2)
では、私たちは具体的にどのようなことに努めることが求められているのでしょうか。著者はまず「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。」と教えます。この教えを聞いて、「ああ、私は泥棒などしたことはないから関係ない」と思うかもしれません。でも本当に関係ないのでしょうか。「盗む」というのは、誰かの財布を盗むことだけではありません。自分たちの便利な暮らしのために、他人の労働力を不当に安く利用する、自然資源を我が物のように無秩序に開発して利用し、地球環境を破壊する。これらは「搾取」という名の盗みです。私たちは、自分たちの便利な暮らしのために、直接、奪い取る行為はしなくとも、それを購入し、利用することで、搾取する仕組みに加担していることになります。著者は続けてこう言います。「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」私たちは、出来るだけ安い買い物をして得しようと考えます。しかし、その値引きの要求は、生産流通システムの中のどこかにしわ寄せが行きます。末端生産者の賃金を削る場合もありますし、自然資源をただ同然で利用する場合もあります。どこかに搾取が生ずるのです。末端の消費者である私たちがこの巨大なシステムを改革したり、利用をやめるということはほとんど不可能と言ってよいでしょう。であるならば、著者が言うように「困っている人々に分け与えるようにしなさい。」という言葉に改めて着目する必要があります。私たちが世界で起きている貧困や自然破壊の問題に関心を持ち、そのために寄付をする。それも不当に得た利益を還元する方法の一つでしょう。つまり、今日の私たちが盗まないようにするために取り組むべきことは、「奪い合うのではなく、分かち合い、共に生きる世界を造る」ことなのです。
4 新しい生き方(結論)
とはいえ私たちは、なかなかそのように歩むことができません。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」という著者が進める生き方もそう簡単にできることではありません。もし、出来るのであれば、教会の中で、また、社会の中での対立は解消されるでしょうが、現実には、なかなかそのようにはいきません。それは、キリスト者と言えども、世にある限り、罪から自由ではないからです。肉の罪は、依然としてキリスト者の体の中に残っているのです。キリスト者とは、赦されてはいますが、依然として罪人なのです。しかし、私たちがキリストを心の中に迎え入れ、キリストの愛に触れることによって、私たちは次第に聖化されていきます。キリスト者の生き方の基本は「隣人と共に生きる」生活です。そのためには、まず隣人に対して嘘を言わないということです。隣人に対して常に誠実に相対することです。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」と著者は勧めます。そして、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」と語ります。ここで注目したいのは、「怒ること」は「罪を犯す」ことではないとしていることです。私たちは、誰しも怒ることがあります。先ほど述べましたように、イエスさまも怒ることがありました。そして、怒りの内容も様々です。自らの意にそぐわないから怒るということもありますが、世の中の不正や人の不義に対して怒るということもあるでしょう。しかし、その怒りを翌日にそのまま持ち越してはいけないというのです。それは、怒りは苛立ちとなり、その苛立ちが人を罪に導くからです。苛立ったまま隣人に接すれば、口から発する言葉は、悪い言葉しか出て来ません。「悪い言葉を、一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と著者は勧めます。怒りをそのまま相手にぶつけるのではなく、一晩熟成して、相手が受容しやすい言葉を用いて相手を良い方向へと導くのです。著者はさらに32節で「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と勧めます。著者がこのように勧めるのは、私たちは神に赦されているけれども依然として罪人であり、隣人に対して悪をもって接してしまうことがあるからです。それは仕方のないことです。だからこそ、神がキリストによって赦してくださったように、私たちも互いに赦し合いなさいと勧められているのです。
私たちは、ここで勧められているように、実際、互いに赦し合うことが出来るだろうかと不安になるかもしれません。しかし、心配することはありません。なぜなら、私たちキリスト者は、キリストに学んで、神によって新しくされているからです。そして、その新しい生き方を支えてくださっているのが聖霊です。ですから、私たちは、自分の力で頑張るのではなく、ただ、主イエスに学び、聖霊の働きに自らを委ねればよいのです。私たちは、聖霊によって、「贖いの日」の保証、永遠の命が与えられているのです。その「贖いの日」を待ち望みつつ、その日まで、互いに助け合い、赦し合い、聖霊によって一つとされて、共に歩んでまいりたいと思います。
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