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過去の説教

2026年8月9日

「妻と夫の神秘」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第12主日) 2026.8.9 杉野信一郎

「妻と夫の神秘」

  • 聖  書 エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節

  • 中心聖句 エフェソ5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

  • 讃 美 歌  こ7、544、546


1 妻たちよ(導入)

今日は、エフェソの信徒への手紙の御言葉が示されました。今週の礼拝の準備を始めた時、私は示された聖書の箇所を見て、正直、ちょっと嫌だなと思いました。エフェソ書というと、何となく道徳臭い臭いがして、元々道徳嫌いの私にとっては決して積極的に読みたいと思う文書ではありませんし、特に「妻たちよ、自分の夫に仕えなさい。」と書かれた今日の箇所は、私のみならず、多くの女性の方々が「何と不条理なことが書かれているのか」と反発を感じておられるところでしょう。それで、今日、牧師はこの箇所をどんなふうに語るのだろうか、日頃のもやもやを解消してくれるような納得のいく説明を聞かせてもらえるだろうかと期待しておられる方もいるのではないか、私はその期待に応えるような説教ができるのだろうかと、もやもやとした心持ちでこの準備の時を過ごしてきました。

そもそもこの箇所の読み方は、教会の中でも一通りではありません。大きく分けると、今日の保守的なプロテスタント教会でよく見られる読み方と、女性の視点を重視するフェミニスト神学をはじめ、人権を重視するリベラルなプロテスタント教会で多く見られる読み方があります。

前者の読み方では、神は男性と女性を等しい尊厳を持つ者として造り、その上で夫と妻に異なる役割を与えたのだと読みます。そしてこの夫と妻の異なる役割は、時代を超えて続く「神の秩序」だと見ます。アメリカの福音派と呼ばれる人々―ビリー・グラハムから始まり、レーガンやトランプ大統領を支持する保守的なキリスト教派の人々は、聖書を逐語的に正しいと読むファンダメンタルな信仰を持ち、「古き良き時代のアメリカ」への回帰を願い、伝統的なキリスト教倫理を重視して、そのように読みます。これに対し、後者は、その役割分担は聖書が語られた当時の社会規範を前提とした教えであり、今日の人が聖書を読む際には、それをそのまま現代に適用するのではなく、そこに込められているメッセージを現代の社会規範に則して読み解くことが必要と考えます。

では、私たちは、今日の聖書の箇所からどのようなメッセージを聴き取ることができるのでしょうか。早速、テキストを見ていきましょう。

 

2 3つの家族倫理の勧告(展開1)

今日の箇所の初めの21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」という言葉は、新共同訳聖書では「妻と夫」という小見出しが付けられた箇所の冒頭に書かれていますが、実は、この言葉は、単に「妻と夫」についての勧告のリード文ではありません。エフェソの信徒への手紙の中心的な主題は、神の人間に対する和解の現実としての教会であり、また、その教会の一致と成長です。そして、それを具体化するための一般的、倫理的勧告が次週8月16日に読まれますエフェソ書4章17節以下、5章20節まで述べられています。21節の言葉は、その前に書かれている一般的、倫理的勧告のまとめの句であると同時に、この句に導かれて、この後、3つの具体的な家族倫理の勧告がなされるのです。一つは、22節から33節の「妻と夫」への勧告、二つ目は6章1節から4節の「子と親」への勧告、そして3つ目が6章5節から9節に記されている「奴隷と主人」への勧告です。「妻と夫」、「子と親」、「奴隷と主人」、これらは当時の人々の日常生活の場を構成していた人々であり、それぞれ主従関係を持って暮らしていた人々です。手紙の著者は、当時、何をするにも決定権を持っていた夫や親や主人だけでなく、それらの人たちに従っていた妻や子や奴隷にも直接呼びかけています。それは、教会には、夫や親や主人である人たちだけでなく、妻や子や奴隷もいて、しかも教会の中には主従関係が持ち込まれず、対等な構成員として受け入れられていた、少なくとも、著者は、それが正しい教会のあり方だと考えていたことを示しています。想像してみてください。今から約二千年前のエフェソの町の一軒の家に、教会の人たちが集まってきました。妻も夫も子どももいます。家で一緒に暮らしていた奴隷たちもいます。誰かが届いたばかりの一通の手紙を広げて声を出して読み始めます。手紙には、教会の人たちに対する具体的な勧めの言葉が記されていました。最初に「妻たちよ」という呼びかけがありました。妻たちはちょっと驚きました。普段だったら、大事なことは、大概、家の長である夫たちに告げられて、妻や子、そして家に住まわせてもらっている奴隷たちは、その家の主人から伝え聞くのが当たり前だったからです。それでは、それぞれに対する勧告を見てまいりましょう。

 

3 妻と夫、子どもと両親(展開2)

妻たちへの勧告は、「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」ということでした。「自分の夫に仕える」ということは、当時の妻たちにとっては当たり前のことでした。勿論、いくら昔の時代のこととは言え、夫と妻の性格や関係は夫婦ごとに千差万別でしたでしょうから、妻が夫に仕えることに何のストレスも感じない人もいたでしょうし、感じていた不満を黙ってこらえていた妻もいたでしょう。また、中には不満を口や態度で表していた妻もいたかもしれませんが、「夫に仕えなさい」ということだけなら、別に目新しい話でもなかったと思います。ただ、この時、妻たちの心に引っ掛かった言葉がありました。それは、「主に仕えるように」という言葉です。当時、教会は唯一男女の区別なく対等に招かれる場所であったこともあって、教会には熱心な信仰を持った女性たちが多くおられたようです。彼女たちは、心から主イエスの御言葉に従っていく敬虔な信仰を持っていましたから、それと同じように自分の夫に仕えなさいというのは、ただ社会常識だからそうしているというのとは訳が違います。夫に対してイエスさまと同じくらいの敬愛の心をもって仕えなさいというのです。「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主」つまり、イエスさまご自身が神の体なる教会の救い主だというのはわかっているけれども、それと同様に「夫は妻の頭だ」というけれども如何なものか。今日の女性からは、およそそんなことは受け入れられないと言われそうですが、いかがでしょうか。私は、これは、夫というものは、当時の社会的には家の頭と見られているのだから、妻は夫の立場を尊重して立てて夫に仕えなさいということではないかと思います。それにしても、続いて述べられている「教会がキリストに仕えるようにすべての面で夫に仕えるべきです」というのも中々ハードルが高い勧告です。

続いて、夫に対する勧告が述べられていますが、こちらはどうでしょうか。妻には「夫に仕えなさい」と言っていましたが、夫には「妻を愛しなさい」と異なる勧めの言葉を述べています。これを捉えて「妻は夫に仕えろというが、夫には愛せよというだけだ。これは、妻を夫より下に見ていることではないか」と噛みつく人もいそうですが、果たしてそうでしょうか。私は、「妻を愛しなさい」という言葉の前に言われている「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」という言葉が曲者だと思うのです。ここで「妻を愛しなさい」と言っている愛とは、一般的な夫婦間の愛情を超えた愛、キリストが自らの命を捨てても貫かれた十字架の愛と同じ愛をもって妻を愛しなさいということです。主イエスは、その生涯において、いつも弱い者、虐げられている者、病んでいる者の友となり、へりくだって仕える者として生きられました。ですから、「妻を愛しなさい」という言葉の中には、「妻に仕えなさい」という内容も含まれており、さらに自らの命も惜しまず徹底して愛しなさい」と言っているのです。一見甘い言葉のように聞こえますが、実は、妻に対する勧告よりもはるかにハードルの高い言葉であるとわかります。

そうしてみると、妻に対する勧告も夫に対する勧告も、ただ単なる道徳的な勧めの域を遥かに超えて、到底受け止めきれないほどハードルの高い勧告であることがわかります。それを可能としているのが、妻と夫の一体性です。そのことが26節から32節に述べられています。31節の引用は結婚式の式文でよく読まれる創世記2章24節の言葉です。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」と言っていますが、実は、この原文は未来形で書かれておりますので、二人は結婚したらその場で一体になるということではありません。むしろ、そこから始まる長い結婚生活を通じて互いに愛し合い、仕え合い続けていくことによって一体となっていくということです。キリストが教会に対して示し、それに倣って妻と夫が結婚生活を通じて形成していくこの一心同体性こそが神秘、信仰生活の奥義なのです。

 

4 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい(結論)

今日は、妻と夫に対する勧告についてだけしか触れることは出来ませんでしたが、その後に記されている子と親に対する勧告も、奴隷と主人に対する勧告も、同じ共通の一般的、普遍的な勧告を具体化したものです。教会に集うすべての人々に対する勧告のエッセンスは、最初に述べた21節の「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい、」という御言葉にあります。妻と夫、子と親、奴隷と主人、いずれにしても、その主従関係を超えて、互いに仕え合いなさいと勧められています。互いに仕え合うということは、相手よりも自分がへりくだって、相手を自分のように愛し、相手のために自分の肉の命さえ惜しまないで尽くすということです。そして、それはキリストに対する畏れをもってしなさいと勧められています。神を畏れるという言葉は聖書に何度も出てきますが、この「キリストを畏れる」という言葉は新約聖書ではこの箇所にしか出てこない貴重な言葉です。キリストがなさった御業、とりわけ十字架と復活の御業のことを思い起こしてください。主イエスは、相手が罪人であることを十分理解されたうえで十字架に架かり、その罪を贖ってくださいました。私たちは、とかく相手が仕える価値のある人であるかどうかとか、自分の好意を理解してくれる人であるかどうかとかを考えてしまいますが、主イエスはそのような分け隔てを一切なさいませんでした。だからこそ、主イエスは、この私のためにも十字架に架かってくださった、それほどにこの私を愛してくださったと信じることが出来ます。キリストがこの私にしてくださったように、あなたがたも、妻を夫を愛し、仕えなさい。子どもにも仕えなさい。血のつながっていない奴隷にも仕えなさい。そのように私たちに勧めているのです。これは、教会に連なり、キリストの体の一部とされた私たちに勧められている新しい生き方です。教会がキリストの体としてそこに連なる者が一致し、教会が成長していくための勧めです。しかも、それは教会内だけにとどまる勧めではありません。日曜日、私たちは礼拝に集い、御言葉を受けて一つとされます。そして、その一致は、教会の中だけに留まってよいというものではありません。キリストに連なる者の新しい生き方は、礼拝後、教会の門を出てから日常の生活の場でこそ実践されていくことが求められているのです。

日本基督教団 横須賀上町教会

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