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過去の説教

2026年8月2日

「平和に満ちた実を結ぶ」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第11主日・平和聖日) 2026.8.2 杉野信一郎

「平和に満ちた実を結ぶ」

  • 聖  書 ヘブライ人への手紙12章3~13節

  • 中心聖句 ヘブライ12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

讃 美 歌  こ49、373、391


1 平和聖日に思う(導入)

今日は平和聖日です。今から81年前、この国の大きな罪責にもかかわらず、神は憐れみをもって、この国が新たに歩みだすことをお許しくださいました。そして、日本基督教団は、戦後17年経過した1962年に、広島への原爆投下によって被爆した牧師・信徒たちが教団に要請を受けて、8月の第一日曜日を「平和聖日」と定め、平和のために祈る日としたのです。さらに、その5年後の1967年には、戦争に対する深い反省と悔恨を込めて「第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を教団議長名で出しました。私たちの横須賀上町教会でも、このことを覚えて平和聖日の礼拝を守っています。

世界で唯一の被爆国である日本は、戦争の悲惨さを身をもって語る責任があると思うのですが、戦後80年を経過して、戦争の悲惨さを直接知っておられる方々は、国民の1割ほどとなり、年々、戦争の悲惨さと平和の有難さを自分事として考え、語っていくことが難しくなってきているように思います。私は、1957年生まれですから、生まれるわずか12年前まで戦時中であったわけですが、自分の幼い頃の記憶には戦争の陰はまったくなく、日本は高度経済成長期の真っ只中にありました。私が小学校6年生の頃、大阪万博が開催され、「戦争を知らない子どもたち」という歌が大ヒットしました。自分たちはまさに「戦争を知らない子どもたち」そのものだと思いながら、この歌を口ずさんでいましたが、この曲が実は反戦歌であったとは、当時は全然わかっていませんでした。戦争を体験した人たちと1世代も違わないのに、私にとって戦争はそれほど遠いものであったのです。だからこそ、平和を望むのであれば、戦前、戦後、何が起こっていたのか、その時、私たちの親や先輩たちは何を考え、何を感じ、何を語っていたのか、そして、その時、教会は何を語り、何をしてきたのかを、学び、伝えていかなければならないと思うのです。

 

2 子として受ける鍛錬(展開1)

さて、今日はヘブライ人への手紙のテキストが与えられました。ヘブライ人への手紙は、紀元1世紀末頃、新約聖書の中では比較的遅い時期に記された書物と考えられています。ユダヤ戦争によってエルサレムは神殿もろとも壊滅させられ、旧約聖書の時代から続いてきた神殿を中心とするユダヤ教は、律法と会堂(シナゴーグ)を中心といる宗教へと大きく変化していました。一方、キリスト教は、使徒たちの働きによってローマ帝国内各地に広がっていきましたが、多神教を奉ずるギリシア・ローマ世界の人々から謂われなき誹謗中傷を受けて、イエスの生と十字架の死と復活を直接知らない2代目クリスチャンたちの信仰は大きく揺さぶられていました。また、ローマ皇帝による新たな迫害の恐れも迫っていました。

このような状況に置かれていた信徒たちに向かって、この手紙の著者は12章の初めのところで、私たちキリスト者の信仰生活をマラソンランナーに喩えて、こう言いました。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人たちの群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」この言葉を受けて、4節の御言葉が続きます。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」ここでは信仰生活をボクシングに喩えています。著者は信徒たちの信仰生活の生ぬるさをなじっているのでしょうか。殉教の死を遂げるほどの信仰を持ちなさいと言っているのでしょうか。確かに著者は、信徒たちの信仰がぐらついてきていることを心配していますが、血を流すまで抵抗しなさいと言っているわけではありません。血を流すまで抵抗したのは、十字架の死を耐え忍ばれたイエスだけです。信仰者にそれを求めているのではありません。信仰者には血を流すまでの抵抗は出来ません。そんなことをすれば、気力を失い、疲れ果ててしまいます。そうではなく、血を流すまで罪と戦い、悪に抵抗されたイエスさまのことを思いながら、あなたの戦いを戦いなさい。あなたに課された罪との戦いは、血を流されたイエスさまほどのものではないのだからと言っているのです。5節以下では、この戦いのことを「主の鍛錬」だと言っています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」これは、箴言3章11~12節の引用です。今日の感覚からすると、これは体罰か、虐待か、家庭内暴力ではないかと感じられて抵抗感を覚えますが、この鍛錬という言葉の原語「パイデイア」は、元々、子どもに対する躾や教育を意味する言葉です。そのやり方には時代的な背景がありますから、それをそのまま現代に適用し難いところはありますが、ここで大事なことは、その「鍛錬」は愛に基づいてなされるものだということです。主なる神は、神の民を「わが子よ」と呼ばれます。「懲らしめられ」「鞭打たれる」ような苦しいことがあっても、「鍛錬」として忍耐しなさい」と勧められています。それは、「神はあなたがたを子として取り扱っておられる」からです。しかも庶子ではなく、実子として取り扱っておられるからです。当時の社会では、家督を継ぐ正妻の子どもである実子と、正妻の子どもではない庶子の区別がありました。父親は家を守るために、実子には厳しい訓練を施します。家督を継がせる男子には高等教育を施すけれども、そうではない女子には高等教育は受けさせない、ということも、昔の日本にはありましたが、それと同じです。難しい勉強をさせられるというのは、その目的や意味が分かっていれば有難いことだと受け止めることができますが、分かっていないうちは、それはただの苦痛としか感じないことでしょう。ここで言われている「鍛錬」はそのようなものです。11節で「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」と言われているとおりです。また、ここでは、神の鍛錬を肉の父親の鍛錬に擬えて説明していますが、その違いについても説明しています。肉の父親は、子どもの将来のために良かれと思った自分の判断に従って子どもを訓練します。しかし、それが常に子どもの益になるとは限りません。例えば医者である父親が息子に自分の跡を継がせようと思って小さなころから医学部を目指して勉学を積ませようとするのですが、子どもにはその希望も才覚もないけれども芸術には非凡な才覚の芽があるといった場合、その父親の鍛錬は子どもの才能の芽を摘んでしまうことになるでしょう。けれども、霊の父である神の鍛錬は、そのような肉の父の鍛錬とは違って、必ず子どもに益をもたらすのだと言います。それは何でしょうか。

 

3 平和に満ちた実(展開2)

霊の父が鍛錬を通して与えてくださる益は二つあります。

一つは、私たちを神の聖さに与らせてくださることです。「神は御自分にかたどって人を創造され」ましたが、人は神に逆らって堕落しました。その結果、人はエデンの園から追放され、生涯食べ物を得ようと苦しみ、死んで塵に返るものとされました。しかし、神は鍛錬を通して人の内に宿る神のかたちが回復され、神との交わりの中に再び招き入れられます。それが、神の聖さに与るということです。

もう一つは、義という平和に満ちた実を結ぶということです。それは、神の前に正しい生き方を送ることによって、内面的にも、外面的にも“平和”という具体的な結果を生み出すことです。それは、以下の四つの形で現れます。

一つは、「心の平和」、内面的な平安が与えられるということです。いつも神の御旨を問い、神の前に正しい選択をする人は、罪悪感や恐れから解放されて、心が静まり、平安が与えられます。

二つ目は、「関係の平和」、人間関係に和解と調和がもたらされるということです。隣人に対して、常に正しい態度、誠実さ、思いやりをもって接することを通して、争いが減り、互いに信頼できる関係が築かれます。

三つ目は、「社会的平和」、共同体に安心と安全が広まるということです。教会において、また社会において、神の前に正しい選択が行われる時、傷ついた者は癒され、弱い者は守られ、貧しい者は豊かさを感じて生きることが出来る社会が形成されます。

四つ目は、「霊的平和」、神と人との間に平和な関係が回復されるということです。キリストによる赦しを通して、神と人との断絶が癒され、祈りと礼拝が喜びに満ち溢れたものとなります。

 

4 萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにせよ(結論)

さて、今、私たちの生きるこの世界は平和かと問われれば、誰もが“否”と答えるでしょう。ウクライナでは、私がこの教会に遣わされた2022年からずっと戦争状態が続いており、未だ終結が見通せない状況にあります。聖書の舞台であるパレスチナでもハマスの攻撃への反撃として始まったイスラエル軍によるガザ地区への軍事攻撃はジェノサイドといって間違いないほどの惨憺たる状況に至っています。そのほか、アメリカによるベネズエラやイランへの攻撃、中国による南沙諸島などへの軍事的展開など、軍事力を背景にした戦争の火種は留まるところがありません。人間は、愚かにも、平和をもたらすためと言って、軍事力を蓄え、武器を振りかざして、力づくでそれを得ようとします。しかしながら、その結果は常に戦争であり、抑圧であり、不公正です。それにも拘わらず、日本の教会は、先の戦争の際に国の軍事政策に同調して戦争への歩みを進めていきました。力の論理に対する教会の無力さを感じます。けれども聖書は語ります。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」平和聖日の今日、私たちは、本当に小さく無力な者のようでありますが、この御言葉に励まされて、教会として語るべきことを語り、なすべきことを成していくため、立ち上がり、前に進んでまいりたいと思います。

日本基督教団 横須賀上町教会

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