

過去の説教
2026年7月26日
「ともに苦しみ、ともに喜ぶ」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第10主日) 2026.7.26 杉野信一郎
「ともに苦しみ、ともに喜ぶ」
聖 書 コリントの信徒への手紙一12章14~26節
中心聖句 Ⅰコリ12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶの です。
讃 美 歌 こ112、390、520
1 一致と多様性(導入)
先月27日に予定され、台風の影響により延期されていた第157回神奈川教区総会が昨日開催され、およそ1ヶ月遅れで野比教会の加太典子先生の按手礼式が無事執行されて、正教師となられました。まずはこの場を借りて喜びをもってご報告させて頂きます。
さて、神奈川教区総会に出られた方は感じておられると思いますが、これが教会の会議なのかと思われるほど、毎度、議場で激しい議論が交わされます。議論となる課題は様々あり、昨日議論となったのは、教師検定制度を巡る問題と、北村慈郎教師の戒規免職処分を巡る問題でした。それぞれの問題には意見が対立する固有の要因はあり、それをここで詳しく説明する暇はありませんが、様々な課題において意見の対立が生ずる根本的な背景には、日本基督教団の教会性を巡る考え方の相違があるよう に思います。それは、一言で言えば、教会の一致を重視するか、多様性を重視するかの相違です。皆様ご存じのように、日本基督教団は日本で最大のプロテスタント教会の団体ですが、元々は、様々な教派に分立していたプロテスタント教会が、戦前の国家政策によって一つにまとめられて成立した経緯があり、一口に教団の教会といっても、福音理解や教会観、信仰告白に対する態度や宣教理解に相違がありますので、教会の一致と多様性をどう折り合いをつけるかということは、教団にとっての宿命的な課題であると言うことができるでしょう。今日は、この教会における一致と多様性の問題について、コリントの信徒への手紙から考えてまいりたいと思います。
2 キリストの体なる教会(展開1)
12節でパウロはまず、「体が一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」と語ります。教会には様々な賜物を与えられた人たちが集められ、それぞれの人が持っている賜物を生かして、教会が与えられた務めを果たす姿を、パウロは人間の体に喩えて描き出しているのです。
人間の体には、頭があり、目があり、耳があり、手があり、足がある。それらが一つの体という有機体を形づくっている。教会もそれと同じだということでしょう。ところが、パウロは、「教会も同様だ」と言わないで、「キリストの場合も同様である」と言うのです。パウロはなぜこのような言い方をしているのでしょうか。パウロのこの言い方の背後には、教会は、人が寄せ集まった単なる集合体ではなく、イエス・キリストそのものなのだという理解が隠されているのです。キリストは復活し、天に挙げられて、もはや地上ではその歴史的な姿を見ることは出来ないけれども、今、天にあって生きて働かれておられるキリストの地上における現実的な体、それが教会なのだというのです。ですから、教会は一つなのです。教会には、様々な人が集います。ギリシアにあるローマの植民都市であったコリントの教会には、実に色々な人たちが集まっていました。イスラエルから散らされてきたユダヤ人もいましたし、現地のギリシア人もいました。ローマ帝国の各地からやってきた人もいたでしょう。奴隷もいたし、自由な身分の者もいました。裕福な人もいましたし、貧しい人たちもいました。そのような多様な人々が一つの霊によって集められ、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったと言います。「霊をのませてもらった」とはちょっと不思議な言い方ですが、聖餐の杯をイメージした言葉なのでしょう。ただ、聖餐で実際に飲むのはキリストの血であって霊ではありませんし、過去に一度の事として語られていることからすると、洗礼を受けた時に、同時に神から頂いた聖霊が体に宿ったということを言っているのでしょう。
3 多くの肢体の多くの機能(展開2)
そして、集められ、一つの体の一部とされた人々は、それぞれが持っている賜物を発揮することによって、体は健康が保たれ、生き生きと活動することが出来るのです。実際の教会で言えば、集められた人々は、それぞれが持っている賜物に応じて、ある者は教え、ある者は異言を語り、ある者はその異言を解釈する。また、ある者は病気を癒し、別のある者は奇跡の業を行う。ある者は豊かに献げ、ある者は奉仕をして他の者を助ける。このように、霊の働きによって集められた多様な賜物を持った人々が、それぞれの賜物を生かすことで教会は、一つのキリストの体として機能するのです。どの人の働きも、教会が健全に活動していくためには欠くことの出来ない大切な働きなのですが、ところが現実にはそのことを理解せず、ある働きだけが重要と考えて誇ったり、羨んだり、そうでない働きを見下したり、卑下したりといったことが起こります。実際、コリントの教会では、異言を語る者が勝った者と考えられ、そうでない人々を見下して教会全体の働きに混乱を招くといった事態が生じていたようです。そのような事態に陥っているコリントの教会の人々に対し、パウロは体の譬えを用いて諭すのです。「もし足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」と問い質します。パウロはここで、「私は体に属していない」と言って個人主義的な行動に走ったり、教会の一致のための配慮を忘れるエゴイストたちに対して、教会とは、多様な働きが霊の力によって一つとされてキリストの体という統一体を成すものなのだということを、譬えを用いて教えているのです。
実は、この体の譬えはパウロのオリジナルのものではなく、当時のギリシア、ローマの人々にはよく知られた譬えであったと言われています。例えばローマ帝国の五賢帝の一人に数えられているマルクス・アウレリウスは、次のような言葉を残しています。
「私は同胞に対して怒ることも出来ず、憎むことも出来ない。なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両眼瞼や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。」
ですからパウロが語った体の譬えは、コリントの人々にとってはどこか聞き覚えのあるような話でしたので、それを聞いただけで容易に理解することが出来たことでしょう。
パウロはさらに続けて語ります。
「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」 それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
これについても、紀元前5世紀のミネニウス・アグリッパという人が、演説の中でこれと同じようなたとえ話を語っています。
「むかしむかし、人体の肢体が今のように意見一致しておらず、各々それ自身の考えと、それを表現する言葉を持っていた頃、胃袋以外の部分が、自分たちは胃袋のために万事を供給する労苦を払わねばならぬのに、胃袋はそのしもべたちに囲まれて怠けており、自分たちが供給するあらゆる良き物を享受すること以外何もしないでいる、ということに憤慨した。そこで、不満分子たちは共謀し、手は口に食事を運ばない、口は出された物をくわえない、歯はなにも噛まないことにした。ところが、彼らは憤慨のあまり胃袋を飢えによって屈服させようとしたにもかかわらず、彼ら自身もからだ全体も、消え入るばかりに衰弱してしまった。この事によって、胃袋もまた果たすべき卑しからざる務めを持っているのであり、なるほど食べ物を受けはするが、同時に、そのおかげで他の肢体を養い、胃袋が消化過程によって造った血液をあらゆる血管を通じてからだのあらゆる部分に送り出していて、その血液に私たちの生命も私たちの健康も依拠しているのだということが、明らかになったのである。」
胃袋が、パウロが言う 体の中でほかよりも弱く見える部分に当たるかどうかはわかりませんが、内臓という表に出ない部分が体全体の働きを支える大切な役割を果たしていることをよく表している話だと思います。
教会も、それと同じです。教会には、様々な賜物をもった人々が集っています。個々の教会もそうですし、全体教会である教団や教会の地域共同体である教区においてもそうです。そこには、実に様々な賜物をもって、自分一人では出来ないような様々な大切な働きをされている方々がおられます。教会が関わる社会問題一つを取ってみても、そのすべてに一人ひとりが直接関わるのは不可能です。しかし、そうした人たちの働きを覚えて祈ることで私たちは、そのことに参与し、一つとなることができます。ですから、教会が持つ多様性は、教会の一致を妨げるものではなく、教会の働きを豊かにするものであると言えるではないでしょうか。
4 苦しみも喜びも分かち合う(結論)
さて、パウロは、さらに、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」と言います。体のどこの部分のことを見劣りのする部分と言っているのか、私にはピ ンときませんが、しかし、「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」という福音書の中で語られている御言葉が思い起こされます。
教会の中では、とかく声が大きく、発言力のある人の働きに注目が集まります。コリントの教会では異言を語る人たちの声が大きく、その発言に他の人々は圧倒されてしまうところがありました。今日の教会では、聖書の御言葉を語る牧師の働きばかりが注目されがちなところがあります。けれどもパウロは、そのような表立って声を発する人の働きではなく、むしろ目立たないけれども地道に続けられている一つひとつの小さな奉仕をされている人たちの存在や、その働きの大切さに注目します。教会がキリストの体として健全な働きをしていく上では、そのような目立たない、小さな働きこそが大切なのだということを教えているのだと思いますし、それにとどまらず、教会に集められた全ての人がキリストにつながって、そのからだの一部となっているだけでも、その方は、教会が一つとなるうえで大切な役割を果たしておられるのだと言っているように思います。それは、25節以下の「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」という言葉によく表されていると思います。
教会には、お年を召し、若い時のように思うように奉仕も出来なくなって寂しい思いをされている方もおられます。それでも何とか礼拝にだけは参加しようとされている姿は、周りの人たちをどれだけ励ましてくださっているか、計り知れません。また、体の具合が思わしくなくて、毎週の礼拝に集うことさえままならない方も増えてきました。それでも、その方々が教会を覚えて祈り、礼拝に集う人々がその方々のことを覚えて祈ることが、どれほど教会の一致を高めていることでしょうか。私たちは、そのような弱さの中でも、互いに気遣い、配慮し合うことを通して強くなる。神さまは、そのような私たちの姿を見て、私たちを強めてくださるのです。教会生活を続けていく中で、私たちは幾多の苦しい事、嬉しい事に出会います。それを一人で抱え込むのではなく、苦しみも喜びも皆で分かち合うことによって、私たちは力を得、教会はキリストの栄光を現していくことが出来るのです。
日本基督教団 横須賀上町教会
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