

過去の説教
2026年7月19日
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第9主日) 2022.7.19 杉野信一郎
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」
聖 書 コリントの信徒への手紙二6章1~10節
中心聖句 Ⅱコリ6:2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
讃 美 歌 こ123、392、91
1 神の協力者(導入)
今日は、パウロが書いたとされる多くの手紙の中から、コリントの信徒への手紙二の御言葉が与えられました。今日の箇所で、パウロはまず、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。」と切り出します。パウロという人物について、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか? パウロは、もともとはサウロという名前でしたが、復活されたキリストと出会って回心してからパウロと名乗るようになりました。パウロは「小さい」という意味であり、口では「すべての聖なる者のうちで最も小さな者」と謙遜な言葉を語っているけれども、どこか自信過剰で周りの人を上から目線で見ているような人ではないか、私は、パウロが書いた手紙の書きっぷりを見て、そう感じることがあります。今日の箇所でもパウロは自分たちのことを「神の協力者」と言っていますが、何とも自惚れた、不遜な言葉のように聞こえます。「あなたがたは、神の協力者である私の言うことをそのまま神の言葉として受け入れて聞き従いなさい」と言っているように聞こえます。しかし、それが彼の真意なのでしょうか。実は、彼自身この手紙の5章18節で「これらはすべて神から出ること」と言っているように、すべてのことは神から始まり、神によって成るのですから、神は誰かの助けや協力がなければ何かを成し得ないということはありません。パウロは、この手紙の5章11節から神の和解と、その和解の使者としての自分の任務について語ってきましたが、和解の御業も100%神の御業なのです。その上で、神は敢えて人を召し出して、その人を用いて御業を成し遂げようとされます。神と人との和解については、すべて主イエスが自らを人の罪の贖いとして献ことによって完全に成し遂げてくださいました。その和解のメッセージ、福音を宣べ伝えるために、神は奉仕者を召して用いてくださるのです。神は、ご自身の働きに参与させるために敢えて人を奉仕者として用いてくださるのです。キリストの代理人のような働きさえさせてくださることもあります。それは、何にも増して名誉なことではありませんか。パウロは、そのことを十二分に理解していました。それでパウロは、誇りと自負をもって自らのことを「神の協力者」と言っているのです。これは、決して自分自身を誇ったり、権威付けようとして言っているのではなく、召してくださった神を誇りとして言っている言葉なのです。3節以下では、パウロが神に仕える者として、どのような姿勢で伝道しているか、その務めに対する自覚と誇りを語っています。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」「罪の機会を与える」というのは、「躓きとなる」ということです。パウロは、福音の伝達者としての務めの妨げとならないように、いついかなる場合においても、自らの立ち振る舞いが福音を聴く人の躓きとならないように心掛けるとともに、すべてのことにおいて、自分自身を、神の仕える人として、自己推薦できるように心掛けていたというのです。実際、パウロは、その福音伝道の歩みの中で、4節から5節にかけて書かれている様々な艱難に遭遇し、そのたびに不屈の忍耐をもって、それらの艱難に耐え忍び、6節から7節に書かれている様々な徳目によって対処してきました。そして、そのことを通して、パウロ自身は、たとい世間的には悲しみや貧しさの中にあっても、神の恵みによっていつも喜び、誰よりも豊かに人々を霊的に富ませることが出来、そしてキリストにあってすべてのものを所有していたと言います。これは、パウロ自身の証しであると言えるでしょう。しかし、パウロは、これらのことを「わたし」ではなく、「わたしたち」を主語として語っています。この「わたしたち」は、パウロとその同労者であるテモテのことだということも出来ますが、むしろパウロは、この手紙の読み手であるコリントの教会の人たちも含めて「わたしたち」と言っているように思えるのです。つまり、わたしたち神の和解の恵みを受けて、キリストに召し出されてた者は皆、パウロが身をもって示したように、神の恵みの果実と言えるような生き方をしてほしい、そのためにパウロは、自分自身の生き方をよく見てほしいと願っているのです。私のような凡庸な人間には、パウロのように胸を張って自分自身の信仰の生き様をみてくださいとは中々言えませんし、むしろ私の生き様を見て躓く人がいるのではないかと心配になるのですが、だからと言って、「教会では、人を見ないで、神さまとイエスさまだけを見て歩みましょう」と言って済ませるわけにはいきません。なぜなら、神さまは、人を介して伝道の御業をなさる方だからです。神さまは、御言葉を語る伝道者だけでなく、キリストを信じて生きるすべての人の生き方、生活を通して福音を伝えようとされるからです。私たちは、このことを自分のこととして積極的に受け止める必要があります。神さまが自分に対してどのように働かれ、それによって自分の生き方がどのように変わったか、変えられたかを証しすることは、すべての信仰者に与えられた大切な務めなのです。
2 「神から頂いた恵みを無駄にする」ってどういうこと?(展開1)
さて、再び冒頭の1節の御言葉に戻りますが、神の協力者であるパウロは、コリントの信徒たちに向かって「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と勧めました。これは、いったいどういうことなのでしょうか。「神からいただいた恵み」とは、神さまがキリストを通して成し遂げ、福音によって提供してくださった恵みです。それを無駄にするとは、福音の御言葉を頂いても、それまでの罪の生活、偶像礼拝の生活を止めないことです。パウロが「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と命令した背景には、コリントの信徒たちは、そのような傾向が顕著であったという事情があったのでしょう。偶像礼拝の生活というと、私たちにはあまり関係がないと思う人が多いかもしれませんが、現代における偶像礼拝とは、必ずしも異教の神信仰に限定されるものではなく、例えば「拝金主義」という言葉で表されるような、金銭的な富を追い求める生活や、この世的な趣味や娯楽、道楽を人生の目的のように追い求める生活なども含まれています。それらを最優先にして、礼拝では「私たちの主なる神」と唱えているのに、一歩、礼拝堂を出ると、相変わらず自分を主人とした生き方を変えようとしない人、そのような人に対して、パウロは神の恵みを無駄にしていると言っているのです。それは、神との和解を観念として受け取って、神との交わり、イエス・キリストとの交わりに生きようとしない態度、自らのすべてを献げて神との和解の道を開いてくださったイエス・キリストの恵みを、自分の都合の良いように利用している態度であると言えるでしょう。神の恵みの中心は、罪を赦され、神の子として受け入れられることです。それは、単なる観念ではありません。キリストの十字架によって私たちは、罪を赦され、罪の報酬である死から解放されて、本当の自由が与えられています。そして、神に愛されていることして、神を「父よ」と呼べる特権が与えられています。ですから、神の子であることを単なる観念に留めるのではなく、実質的に神の子として生きること、子として父なる神との交わりに生きることが大切です。幼い子どもたちは、理屈なしに親を慕い、辛い時、悲しい時も、親のもとに帰って抱きしめてもらおうとします。同じように私たちも、どんなに失敗しても、罪を犯しても、あの放蕩息子の喩えで語られているように、父なる神のもとに帰れば、神はそんなわたしたちを喜んで受け止めてくださるのです。ですから、私たちは、神はきっと自分のことを赦してくださらないなどと自分で勝手に判断することなく、幼子のように素直な心で父なる神との交わりに帰ることが大切なのです。
3 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(展開2)
パウロは続く2節で、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけない」と命ずるのは、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」からだと説明します。これは、イザヤ書49章8節からの引用です。「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。」ここで、「恵みの時にあなたに答えた。救いの日にあなたを助けた」と「恵みの時」、「救いの日」の出来事が完了形で書かれていますが、これは、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民がまもなく解放されるという喜びの出来事の預言の言葉です。完了形で書かれていますが、これはこれから起きる「恵みの時」「救いの日」の出来事の確実さを表す完了形と言われています。しかし、パウロはこの言葉に続けて「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と続けて、「今」を強調しています。パウロは、かつて神がイスラエルの民に与えられたバビロン捕囚からの解放を告げる言葉を引用して、捕囚からの帰還に遥かに勝る、イエス・キリストの十字架の出来事によって神との和解が実現した今こそ、「恵みの時」、「救いの日」であると宣言しているのです。旧約聖書の時代は、預言者たちによって、やがて救い主が現れるという約束が語られたように、救い主を待つ時代でした。旧約聖書のみを聖書として認めるユダヤ教の人々は、今なお救い主の到来を待ち望んでいます。けれども、新約聖書では、本日の招詞で取り上げたマルコによる福音書の「時は満ち、神の国は近づいた」という御言葉に示されるように、約束の救い主は既に来られたことを告げています。贖いの御業は成就した今こそ、すべての人に福音が語られ、神の国の入口が開かれている時、まさに「恵みの時」、「救いの日」なのです。しかし、この「恵みの時」、「救いの日」は、いつまでも続くわけではありません。やがて終わりの日が訪れます。それはキリストの再臨の日です。その日がいつ訪れるかは、私たち人間には分かりません。その日は突然やって来るのです。今は待つ時ではなく、決断の時です。この時を見過ごさず、その日が来るまでに神の国に入りなさいとパウロは勧めているのです。
4 義の武器を携えて(結論)
しかし、一口に「今」と言われても、私たちには、それぞれ幸せな時もあれば、悲しみに襲われる時もあります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言われても、自分にはとてもそうは思えないという時もあるでしょう。また、パウロの証しを聞いても、自分はパウロのようにはとても出来そうもないし、自分には、神の恵みを頂くことが出来るような価値はないのではないかと思うかもしれません。しかし、どのような状況にあっても、わたしたちがどのような者であったとしても、与えられるのが神の恵みです。パウロは、「左右の手に義の武器を持って様々な艱難を耐え忍んだと言いましたが、神の義は、私たちが何かを達成したから与えられる報酬のようなものではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストと結ばれた時に、無条件に与えられるものです。ですから、自分の力ではどうにもならないと絶望し、行き詰まった時にこそ、神さまの力が現れます。その時こそ、あなたにとっての「救いの日」となるのです。その日、その時、神の恵みを豊かに頂いて、御国のために働く者として歩み出してまいりましょう。) 2022.7.19 杉野信一郎
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」
聖 書 コリントの信徒への手紙二6章1~10節
中心聖句 Ⅱコリ6:2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
讃美歌 こ123、392、91
1 神の協力者(導入)
今日は、パウロが書いたとされる多くの手紙の中から、コリントの信徒への手紙二の御言葉が与えられました。今日の箇所で、パウロはまず、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。」と切り出します。パウロという人物について、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか? パウロは、もともとはサウロという名前でしたが、復活されたキリストと出会って回心してからパウロと名乗るようになりました。パウロは「小さい」という意味であり、口では「すべての聖なる者のうちで最も小さな者」と謙遜な言葉を語っているけれども、どこか自信過剰で周りの人を上から目線で見ているような人ではないか、私は、パウロが書いた手紙の書きっぷりを見て、そう感じることがあります。今日の箇所でもパウロは自分たちのことを「神の協力者」と言っていますが、何とも自惚れた、不遜な言葉のように聞こえます。「あなたがたは、神の協力者である私の言うことをそのまま神の言葉として受け入れて聞き従いなさい」と言っているように聞こえます。しかし、それが彼の真意なのでしょうか。実は、彼自身この手紙の5章18節で「これらはすべて神から出ること」と言っているように、すべてのことは神から始まり、神によって成るのですから、神は誰かの助けや協力がなければ何かを成し得ないということはありません。パウロは、この手紙の5章11節から神の和解と、その和解の使者としての自分の任務について語ってきましたが、和解の御業も100%神の御業なのです。その上で、神は敢えて人を召し出して、その人を用いて御業を成し遂げようとされます。神と人との和解については、すべて主イエスが自らを人の罪の贖いとして献ことによって完全に成し遂げてくださいました。その和解のメッセージ、福音を宣べ伝えるために、神は奉仕者を召して用いてくださるのです。神は、ご自身の働きに参与させるために敢えて人を奉仕者として用いてくださるのです。キリストの代理人のような働きさえさせてくださることもあります。それは、何にも増して名誉なことではありませんか。パウロは、そのことを十二分に理解していました。それでパウロは、誇りと自負をもって自らのことを「神の協力者」と言っているのです。これは、決して自分自身を誇ったり、権威付けようとして言っているのではなく、召してくださった神を誇りとして言っている言葉なのです。3節以下では、パウロが神に仕える者として、どのような姿勢で伝道しているか、その務めに対する自覚と誇りを語っています。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」「罪の機会を与える」というのは、「躓きとなる」ということです。パウロは、福音の伝達者としての務めの妨げとならないように、いついかなる場合においても、自らの立ち振る舞いが福音を聴く人の躓きとならないように心掛けるとともに、すべてのことにおいて、自分自身を、神の仕える人として、自己推薦できるように心掛けていたというのです。実際、パウロは、その福音伝道の歩みの中で、4節から5節にかけて書かれている様々な艱難に遭遇し、そのたびに不屈の忍耐をもって、それらの艱難に耐え忍び、6節から7節に書かれている様々な徳目によって対処してきました。そして、そのことを通して、パウロ自身は、たとい世間的には悲しみや貧しさの中にあっても、神の恵みによっていつも喜び、誰よりも豊かに人々を霊的に富ませることが出来、そしてキリストにあってすべてのものを所有していたと言います。これは、パウロ自身の証しであると言えるでしょう。しかし、パウロは、これらのことを「わたし」ではなく、「わたしたち」を主語として語っています。この「わたしたち」は、パウロとその同労者であるテモテのことだということも出来ますが、むしろパウロは、この手紙の読み手であるコリントの教会の人たちも含めて「わたしたち」と言っているように思えるのです。つまり、わたしたち神の和解の恵みを受けて、キリストに召し出されてた者は皆、パウロが身をもって示したように、神の恵みの果実と言えるような生き方をしてほしい、そのためにパウロは、自分自身の生き方をよく見てほしいと願っているのです。私のような凡庸な人間には、パウロのように胸を張って自分自身の信仰の生き様をみてくださいとは中々言えませんし、むしろ私の生き様を見て躓く人がいるのではないかと心配になるのですが、だからと言って、「教会では、人を見ないで、神さまとイエスさまだけを見て歩みましょう」と言って済ませるわけにはいきません。なぜなら、神さまは、人を介して伝道の御業をなさる方だからです。神さまは、御言葉を語る伝道者だけでなく、キリストを信じて生きるすべての人の生き方、生活を通して福音を伝えようとされるからです。私たちは、このことを自分のこととして積極的に受け止める必要があります。神さまが自分に対してどのように働かれ、それによって自分の生き方がどのように変わったか、変えられたかを証しすることは、すべての信仰者に与えられた大切な務めなのです。
2 「神から頂いた恵みを無駄にする」ってどういうこと?(展開1)
さて、再び冒頭の1節の御言葉に戻りますが、神の協力者であるパウロは、コリントの信徒たちに向かって「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と勧めました。これは、いったいどういうことなのでしょうか。「神からいただいた恵み」とは、神さまがキリストを通して成し遂げ、福音によって提供してくださった恵みです。それを無駄にするとは、福音の御言葉を頂いても、それまでの罪の生活、偶像礼拝の生活を止めないことです。パウロが「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と命令した背景には、コリントの信徒たちは、そのような傾向が顕著であったという事情があったのでしょう。偶像礼拝の生活というと、私たちにはあまり関係がないと思う人が多いかもしれませんが、現代における偶像礼拝とは、必ずしも異教の神信仰に限定されるものではなく、例えば「拝金主義」という言葉で表されるような、金銭的な富を追い求める生活や、この世的な趣味や娯楽、道楽を人生の目的のように追い求める生活なども含まれています。それらを最優先にして、礼拝では「私たちの主なる神」と唱えているのに、一歩、礼拝堂を出ると、相変わらず自分を主人とした生き方を変えようとしない人、そのような人に対して、パウロは神の恵みを無駄にしていると言っているのです。それは、神との和解を観念として受け取って、神との交わり、イエス・キリストとの交わりに生きようとしない態度、自らのすべてを献げて神との和解の道を開いてくださったイエス・キリストの恵みを、自分の都合の良いように利用している態度であると言えるでしょう。神の恵みの中心は、罪を赦され、神の子として受け入れられることです。それは、単なる観念ではありません。キリストの十字架によって私たちは、罪を赦され、罪の報酬である死から解放されて、本当の自由が与えられています。そして、神に愛されていることして、神を「父よ」と呼べる特権が与えられています。ですから、神の子であることを単なる観念に留めるのではなく、実質的に神の子として生きること、子として父なる神との交わりに生きることが大切です。幼い子どもたちは、理屈なしに親を慕い、辛い時、悲しい時も、親のもとに帰って抱きしめてもらおうとします。同じように私たちも、どんなに失敗しても、罪を犯しても、あの放蕩息子の喩えで語られているように、父なる神のもとに帰れば、神はそんなわたしたちを喜んで受け止めてくださるのです。ですから、私たちは、神はきっと自分のことを赦してくださらないなどと自分で勝手に判断することなく、幼子のように素直な心で父なる神との交わりに帰ることが大切なのです。
3 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(展開2)
パウロは続く2節で、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけない」と命ずるのは、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」からだと説明します。これは、イザヤ書49章8節からの引用です。「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。」ここで、「恵みの時にあなたに答えた。救いの日にあなたを助けた」と「恵みの時」、「救いの日」の出来事が完了形で書かれていますが、これは、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民がまもなく解放されるという喜びの出来事の預言の言葉です。完了形で書かれていますが、これはこれから起きる「恵みの時」「救いの日」の出来事の確実さを表す完了形と言われています。しかし、パウロはこの言葉に続けて「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と続けて、「今」を強調しています。パウロは、かつて神がイスラエルの民に与えられたバビロン捕囚からの解放を告げる言葉を引用して、捕囚からの帰還に遥かに勝る、イエス・キリストの十字架の出来事によって神との和解が実現した今こそ、「恵みの時」、「救いの日」であると宣言しているのです。旧約聖書の時代は、預言者たちによって、やがて救い主が現れるという約束が語られたように、救い主を待つ時代でした。旧約聖書のみを聖書として認めるユダヤ教の人々は、今なお救い主の到来を待ち望んでいます。けれども、新約聖書では、本日の招詞で取り上げたマルコによる福音書の「時は満ち、神の国は近づいた」という御言葉に示されるように、約束の救い主は既に来られたことを告げています。贖いの御業は成就した今こそ、すべての人に福音が語られ、神の国の入口が開かれている時、まさに「恵みの時」、「救いの日」なのです。しかし、この「恵みの時」、「救いの日」は、いつまでも続くわけではありません。やがて終わりの日が訪れます。それはキリストの再臨の日です。その日がいつ訪れるかは、私たち人間には分かりません。その日は突然やって来るのです。今は待つ時ではなく、決断の時です。この時を見過ごさず、その日が来るまでに神の国に入りなさいとパウロは勧めているのです。
4 義の武器を携えて(結論)
しかし、一口に「今」と言われても、私たちには、それぞれ幸せな時もあれば、悲しみに襲われる時もあります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言われても、自分にはとてもそうは思えないという時もあるでしょう。また、パウロの証しを聞いても、自分はパウロのようにはとても出来そうもないし、自分には、神の恵みを頂くことが出来るような価値はないのではないかと思うかもしれません。しかし、どのような状況にあっても、わたしたちがどのような者であったとしても、与えられるのが神の恵みです。パウロは、「左右の手に義の武器を持って様々な艱難を耐え忍んだと言いましたが、神の義は、私たちが何かを達成したから与えられる報酬のようなものではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストと結ばれた時に、無条件に与えられるものです。ですから、自分の力ではどうにもならないと絶望し、行き詰まった時にこそ、神さまの力が現れます。その時こそ、あなたにとっての「救いの日」となるのです。その日、その時、神の恵みを豊かに頂いて、御国のために働く者として歩み出してまいりましょう。
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