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2026年7月12日
「神の家である教会」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第8主日礼拝) 2026.7.12 杉野信一郎
「神の家である教会」
聖 書 テモテへの手紙一3章14~16節
中心聖句 Ⅰテモ3:15b神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
讃 美 歌 こ18、52、409
1 教会とは何か(導入)
私たちは、今、「教会の時」とも呼ばれる聖霊降臨節の時を歩んでいます。イエス・キリストが復活して50日後のペンテコステの日、エルサレムの家に集まっていた弟子たちの上に聖霊が降り、弟子たちは世界各地に散らされていき、そこでキリストの福音を宣べ伝え、教会を建てていきました。教会は、ユダヤ人社会を越えて異邦人の世界へと広がっていきましたが、しかし、遣わされていった牧会者たちは、その先々で様々な困難な課題に遭遇いたしました。
今日、読まれましたテモテへの手紙一は、そのような状況の中で書かれた手紙の一つで、エフェソ教会の監督となったテモテに当てたとされる手紙です。テモテはパウロの第二伝道旅行の途中、立ち寄ったリストラの出身で、彼はそこからパウロに同行し、パウロから宣教と指導の務めを託されて諸教会に派遣されたこともありました。テモテは、エフェソの教会でもパウロと活動を共にしていましたが、パウロがそこからマケドニアの宣教に旅立った際に、エフェソ教会を異端の教えから守るためにテモテはエフェソ教会の指導者として留まったのです。エフェソの教会は、グノーシスと呼ばれる異端派の人々によって混乱に陥っていました。彼らは、この世に悪が満ちているのは人間が肉体を持ち、肉欲を持つところから生じていると考え、禁欲を教えました。そして、肉体を否定的に 捉える余り、キリストが肉を持って世に来たことを否定し、十字架の死も復活も否定するようになったのです。パウロは、このような厳しい状況の中でエフェソの教会の牧会を任されているテモテを気遣って、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。」と綴っています。
2 「神の家」である教会(展開1)
パウロはここで三つの言葉を用いて、教会とはそもそも何なのかということを語っています。まず、最初に語られていることは、教会は「神の家」だということです。家はギリシア語では「オイコス」と言いますが、これは、建物としての家だけでなく、家族や家庭という意味も併せ持った言葉です。教会は神の家族なのだ、だから私たちは教会に集まる人々を兄弟姉妹と呼ぶのだというわけです。特に、ここでは「どのように生活すべきか」と言っていますから、「神の家」という言葉は、神を礼拝し、賛美し、祈る場所であるということに留まらず、食事を共にしたり、貧しい寡婦の生活を助けるといった互助的な活動をするなど、教会員一人ひとりの生活 に深くコミットした共同体の姿を示しているように思うのです。それなのに、何故あなたたちは「私は正しい、あなたは間違っている」と教会の中で争いあうのかとパウロはここで戒めているのです。
二つ目は、「生ける神の教会」という言葉です。「神の家」の構成員は、そこに集う教会員たちですが、彼らは、それぞれ自分たちの自発的な思いで集まってきている人たちではありません。彼らは、神によって召し出された神の家族なのです。教会とはエクレシア、呼び集められた者の群れです。そして、その神は、異邦人たちが崇め奉っている、人が木や石を刻んで造った偶像、死んだ神ではなく、生きた神なのです。イエス・キリストは、私たち一人ひとりの罪を贖うために十字架に架かられて死にましたが、復活され、今、この時も生きておられて、私たち信じる者一人ひとりに命の息吹を送り続けていてくださっているのです。神は、本来、人間が作った建物、たとえそれがソロモンが作った壮麗な神殿であったとしても、その中に納まるような小さなお方ではありませんが、その神が、まさにこの小さな教会の一つひとつにご臨在くださって、そこで献げられる祈りを聴いてその祈りに答え、その群れを養ってくださっているのです。エフェソの教会は、確かに厳しい混乱の中に置かれており、その監督を任された若きテモテは途方に暮れてしまうこともあったでしょうが、しかしそこは「生ける神の教会」なのですから、テモテはすべてを自分の責任と抱え込むことなく、教会の行く末は、教会の主である神に委ねればいい。そのような慰めがこの言葉の背後には感じられます。それは、高齢化が進み、次世代の教会の担い手が育っていない現代の教会を牧する者にとっても、大きな慰めです。
3 真理の柱と土台(展開2)
そして三つ目ですが、神の家は「真理の柱であり土台である」教会だということです。エフェソの町には、当時、高さ18メートルもある巨大な大理石の柱127本が立ち並ぶ壮麗なアルテミス神殿がありました。このアルテミス神殿をめぐっては、パウロが「手で造ったものなどは神ではない」と言って、アルテミス神殿をないがしろにしたという銀細工師の訴えによりただならぬ騒動も起こっていました。エフェソ教会の人たちは、「真理の柱」と聞いてこのアルテミス神殿のことを思い起こしたことでしょう。アルテミス神殿を建て上げていたのは巨大な石の柱でしたが、そこに真理があるわけではありません。パウロは、神の教会こそが真理の柱であり土台なのだと言うのです。真理は、教会に結ばれてすでに救われた人々の信心や敬虔さをとおして、人々に示されていくのだと言います。
では、その真理とはどのようなものなのでしょうか。そのことが16節に示されています。これは、当時の教会が共通して受け入れ、歌っていた讃美歌の歌詞で、キリストの福音を簡潔に表現したものと言われています。内容を見てみましょう。
全部で6行の詩文形式になっていますが、1行目、4行目、5行目がキリストを巡って地上で起こったことが謳われ、2行目、3行目、6行目では天上の世界で起こったことが謳われています。まず、一行目、キリストは肉において現れました。救い主キリストが、真の人となって世に来られたのです。それは、キリストが十字架につけられて死なれたことまで含んでいます。そして2行目ですが、人としてお生まれになって十字架で死なれたキリストは、“霊”において義とされました。これは、聖霊なる神の働きによってキリストは復活し、神の御前に義なる方とされ、天に挙げられ、勝利を得たことを示しています。続く3行目ですが、キリストが天使たちに見られたというのは、天の諸力すべてが天上に挙げられたイエスに屈服したことを表しています。一方、地上では、4行目、5行目で、世界的な宣教の勝利が語られています。キリストの復活が、使徒たちから始まって異邦人の間で宣べ伝えられ、今や世界中で信じられるに至ったのです。最後の6行では、復活されたキリストが栄光のうちに天に昇られ、今なお神の右に座して、真の王として世界を治めておられます ことが謳われています。
教会は、この賛美歌を歌い続けることによって、神の福音を思い起こし、教会に集う人々の信心、敬虔な生活によってその福音を世に示していったのです。
教会は、このキリストの福音を語り続けるために存在します。もし教会がキリストを語らなくなれば、教会はその本質を失ってしまいます。どれほど活動が盛んであっても、どれほど組織が整っていても、キリストの福音が中心にないなら、それは「神の家」とは言えません。
4 ここは天国の門だ(結論)
今日は、招きの言葉に創世記28章17節のヤコブの夢の箇所から御言葉を選びました。
アブラハムの孫、イサクの子であるヤコブは、双子の兄エサウをだまして長子の祝福を我が物としたためにエサウの怒りを買い、その怒りから逃れるために ベェル・シェバを立って、ハランの地にいる伯父のラバンのもとへと向かいます。その旅の途上、ヤコブは、夢で、神の御使いが天に至る梯子を上り下りするのを見て、主から祝福の言葉を頂きます。そして、眠りから覚めたヤコブが語った言葉が先ほどの招きの言葉、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」という御言葉です。ヤコブはその場所をベテル(神の家)と名付けました。
救い主イエス・キリストが世に遣わされ、十字架の死と復活と昇天の後、聖霊が降された後は、教会が新しい「神の家」となりました。教会は、神が臨在される畏れ多い場所、神の家となったのです。神は、この群れを選び、導き、守り、養ってくださっています。私たちはその家に招かれ、神の家族として生きる恵みを与えられているのです。まさしく教会は、神の家族が集う神の家であり、永遠の命に至る天の門なのです。
私たちは、ここで毎週礼拝を献げます。礼拝は単なる集会ではありません。神が臨在される聖なる時です。私たちは心を整え、我が身を神への献げ物として御前に立ち、会衆が一つとなって祈りと賛美を献げ、御言葉を聴くのです。そのすべてを通して、神は教会において信仰の奥義を明らかにし、すべての人を救いへと導く神の働きをほかのどこかではなく、教会において成し遂げようとされてい ます。私たち一人ひとりはまことに貧弱な者ですが、神はこのような器にキリストという真理をお与えになられたということを覚え、私たちはこの真理を守り、教会を中心とした信仰生活全体を通してキリストを証ししていく者でありたいと思います。
日本基督教団 横須賀上町教会
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