top of page
Mask group.jpg
Frame 1841.jpg

過去の説教

2026年7月5日

「キリストにある自由」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第7主日) 2022.7.5 杉野信一郎

「キリストにある自由」

  • 聖  書 ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節

  • 中心聖句 ガラ5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

  • 讃 美 歌  こ18、50、472


1 わかっているのに出来ない(導入)

私たちにとって日頃悩みの種になることは何でしょう。人それぞれ違う悩みがあるとは思いますが、ほとんどの人が共通して思うこととして、「わかっているのに、その通りには出来ない」ということがあるのではないかと思うのです。「どうしたらよいか皆目見当がつかない」ということではなくて、「本当はこうしなければいけない」、或いは「こうしちゃいけない」ということがわかっていながら、ついついそう出来ない、或いはやってしまったということが、皆さんもあるのではないでしょうか。酒を飲みすぎちゃいかんと思いながら、つい飲み過ぎてしまう、面倒な仕事は先にさっさと片づけてしまった方がよいとわかっていながら、ついつい後回してしてしまって後悔する、そんなことを繰り返しやってしまって、情けなくなってしまう、自分自身の愚かさを嘆かずにはいられなくなる、そのような悩みは、何も私たちの家庭や職場だけのことではない。私たちの国の歴史を見ても、どうしてあの時、日本は、勝ち目がない戦争に突き進んでいったのか、後から見れば、何とも愚かなことをしたものだと誰もが思うけれど、当時はほとんど誰もそのことを批判できませんでした。しかも、悪いことに、私たちは、他人の愚かさにはすぐに気がつきますが、自分自身の愚かさには気づくことができない。気付いたとしても、中々、その愚かさから自由にはなれない、それが私たちの性というものです。実は、今日読みました箇所でパウロが問題にしているガラテヤの教会の人々も、今日の私たちと同じように、他人の愚かさにはすぐ気がつくのに、自分の愚かさには中々気付かず、その愚かさに捉われてしまっていました。

 

2 自由、割礼、律法(展開1)

今日お読みした箇所には、「キリスト者の自由」という小見出しが付けられています。お読みした2節から11節のところには「自由」という言葉は出て来ませんが、その直前の1節で「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身としてくださった。」「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と告げた後、ここでは「キリスト者の自由」とは何かということ、どうしたら自由になれるのかということが語られているのです。

ガラテヤの教会の人々は、元々、律法を知らず、真の神を知らない罪の中に生きていましたが、パウロの宣教を通して、異邦人にも開かれたキリストの福音に触れて、彼らはキリストを神の子・救い主と信じて洗礼を受け、教会を形成して信仰生活を歩む者となっていたのです。ところが、パウロが彼らのもとを離れた後、彼らのもとを別のユダヤ人教師が訪れ、本当に救われるにはキリストの洗礼を受けただけでは十分ではなく、割礼を受けることが必要だと教えたのです。割礼とは、生まれながらにして神の民に属しているということの証しとして、ユダヤ人の男子が生まれて8日目に包皮を切除する、律法に定められた儀式です。当時、ユダヤ人キリスト者の中には、神の救いは、律法、とりわけ割礼を受け、安息日と食物規程を遵守する神の民にだけ及ぶのだと理解する者が多くいましたが、パウロは、「人は律法の実行によっては義とされない。信仰によってのみ義とされる。」と教え、異邦人がキリスト者となる際には、割礼は必要ないのだと教えました。2節以下を見ますと、割礼を受けようとするガラテヤの教会の人々に対する厳しい非難の言葉が綴られていますが、それは、キリストの救いは、律法を授与されたユダヤ人に限られたものではないということを明確に示すものだったのです。

ところが、ガラテヤの教会の人々は、せっかくパウロからキリストの福音を聞いて、それまで捉われていた罪の生活から解放されて、キリストの救いに生きる信仰生活に導かれたというのに、「本当に救われるためには、割礼を受けることが必要だ」という、後から来たユダヤ人教師の言葉に惑わされてしまいました。洗礼を受けたけれども、その時の水は乾いてしまい、洗礼を受けた時にした信仰告白の言葉も消えてしまって、目に見えるしるしが何もないことに対する不安があったのかもしれません。それに、キリストを信じたユダヤ人は、パウロも含め皆、割礼を受けているのだから、自分たち異邦人キリスト者も、彼らと同じように割礼を受けることにプラスこそあれ、マイナスはないと考えても不思議はありません。しかし、パウロはそのことに断固として“否”を突き付けます。キリスト者にとって大事なことは、救いはただキリストの十字架の死と復活を信じることによって与えられるということであって、それ以外に何かが必要だと考えることは、キリストの十字架の死と復活は、人が救われるために十分ではなかったと考えることであり、「もし、割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と、大変厳しい言葉を告げます。そして、割礼を受ける人は、律法全体を行う義務があると告げます。律法の規定は全部で613もあると言われ、律法を守ることにおいては誰にも負けないと自負するパウロにして、律法を完全に守ることは不可能であり、誰も律法の遵守によって救われることはないと言っています。しかし、それよりも大事なことは、律法の遵守によって救われようと考えること自体、そう考える者は、それがだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失うと告げるのです。

 

3 律法主義からの解放(展開2)

さて、今日の箇所では、パウロは割礼や律法によって救われるかどうかを問題にしていますが、皆さんの中には、それが私たちと何の関係があるのか、私たちは、律法の民ではないのだから、律法を守って救われようなんて考えたこともないし、まして割礼など、ユダヤ人だけの問題ではないか、そのような疑問を抱いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

律法は、聖書に書かれている御言葉であり、大切な教えではありますが、直接的には、神が自らの民として選ばれたユダヤ人たちに与えられた掟であり、特に、割礼や食物規程などは、ユダヤ人でない私たちが文字通り遵守しなければならないものではありません。しかし、ここで問題になっているのは、律法そのものではなく、律法を守ることによって正しい者とされ、救いに与れると考える律法主義です。主イエスと対立関係にあったファリサイ派の人々は、神に対して正しく生きるという点では、誰にも増して敬虔な人たちでありましたが、主イエスが彼らを目の敵のように批判したのは、彼らのその正しさが、人を生かすことにつながっていなかったからです。特に、律法主義の問題が露わになるのは、律法主義が正義感に溢れる時です。自分たちは正義を語り、正義に生きていると思い込むことです。これは、歴史上の、また今日のキリスト教会にもよく見られる姿です。特に、世の中が変化し、多様性が増していくとき、例えば、保守的なキリスト者たちがLGBTの人たちに対してあの人たちは罪人だと裁いてその生き方を否定したり、主流派の教えとは異なる信仰のあり方を示した人たちに対して、教会法や、日本基督教団であれば教憲・教規に違反しているとして、異端者のように断罪したり、そのような姿が見受けられます。また、最初に申しましたように、私たちがどうしてこんなに愚かなのかと悩んだり、嘆いたりして、そこから本当には自由になれない理由の一つには、私たち自身が律法主義に捉われてしまっているということがあるのだと思うのです。

正しく生きたい、誰からも後ろ指さされないように立派に生きたい、そのように考え、努力すること自体は褒められるべきことだと思います。けれども、それがエスカレートしていくと、色々と問題を生じてきます。自分が思い描いたようには自分の行動がついて来れなくて自己嫌悪に陥って苦しむこともありますし、逆にうまくいって、そのことを誇り驕り高ぶるようになったり、周りの人たちが自分と同じようにしないこと、出来ないことに苛立ちを覚えて、不平不満を述べたり、叱責したりといった行動に及ぶことも出てきます。それはまさしく聖書が描くファリサイ派の人たちの律法主義者の振舞です。パウロが律法に依存する生活、律法主義を批判する時、これはユダヤ人のこと、或いは当時の教会のことで、自分たちには関係ないと思うかもしれませんが、実はそうではなくて、キリストを脇に置いて、自分の行い、自分と周りの人たちとの関係性の中で問題を解決し、救いを得ようとする時、私たちは律法主義に陥ってはいないかと自分自身を顧みて検証してみる必要があると思うのです。自分自身の生活の中で、自分にとってキリストが本当に用のある方になっているかどうかを顧みることが大切だと思うのです。

 

4 キリストと結ばれて生きる自由(結論)

では、私たちがここで言う律法主義に陥っていると気づいた時、その呪縛から解放され、自由になるためにはどうしたらよいのでしょうか。

自分で何とか出来ると思うことからの解放ですから、当然、自分の力ではどうにもなりません。5節に「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」とありますが、「義とされる」という受け身で表現されておりますように、律法主義の呪縛から解放され、正義を手に入れるには、外から来るものを待たねばなりません。それが“聖霊”の力です。私たちは、自分自身の愚かさから解放され、本当の自由を得るためには、聖霊を求めて祈り続けることが必要なのです。

そして、6節では「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」と書かれています。キリスト・イエスに結ばれているところで意味を持ってくるのは信仰だけだというのです。

そして、その信仰は「愛を通して働く」というのです。愛を通して信仰が現実化するということです。ここで一つの疑問が生ずるかもしれません。何だ、ただ信ずるだけでは駄目なのか。信仰プラス愛の実践がなければ救われないのかと。「愛せよ」と言われて、好きな人ならもちろん愛せます。けれども「敵を愛しなさい」と言われて、私たちは本当に愛することができるでしょうか。例えば、自分の家族の命を奪った者のことを、私たちは本当に愛することができるのでしょうか。それは、とても自分では出来ないことだと思います。ですから、ここで言う「愛」もまた、私たち人間の手の内にはないのです。愛せよと言われた人を愛せないところにこそ、人間の悲惨があります。それを可能とするのは、ただ一人、十字架の主イエスです。主が私たちの罪を赦すために自らの命を献げてくださった、そのキリストに結ばれ、その愛に縋る以外に私たちの救いはないのです。主が私たちに救いの手を差し伸べてくださっています。その手をしっかりと掴んで、日々、主の御顔を仰ぎつつ歩んでまいりましょう。

日本基督教団 横須賀上町教会

〒238-0017 神奈川県横須賀市上町2丁目3

© 日本基督教団 横須賀上町教会附属 めぐみ幼稚園 All Rights Reserved.

bottom of page