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2026年5月31日
「神の子どもとして生きる」
横須賀上町教会聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)礼拝 2022.5.31 杉野信一郎
「神の子どもとして生きる」
聖 書 ローマの信徒への手紙8章12~17節
中心聖句 ローマ8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
讃美歌 こ12、12、5 29
1 信仰者の人生(導入)
今日は、御言葉の解き明かしに入ります前に、教会員の消息についての報告をさせて頂きたいと思います。週報の5ページに記しておりますが、先週5月26日火曜日の朝、増田蕙子姉妹のお母様で千葉県八千代市にお住いの百目木千恵子姉妹が天に召されました。106歳でした。姉妹が洗礼を授けられたのは18歳の時でしたから、信仰暦は88年に及びます。百歳を超える長寿を全うされたということだけでも大きな恵みですが、その長い人生の大半を信仰者として歩むことが出来たことは、本当に祝福された人生であったと思います。洗礼を受けて信仰者となるということは、聖霊を注がれて「霊の人」となることであります。今日は、そのことをローマの信徒への手紙の御言葉を通して考えてまいりたいと思います。
2 キリストに結ばれた生(展開1)
さて、信仰者とかキリスト者と聞くと、善良で、世俗的な欲得とも無縁で、汚れのない清らかな生活をしている人、常に聖書に親しみ、祈りを絶やさない人、謙遜で愛に溢れている人、そんなイメージを抱きますが、いざ自分の生き様を顧みますと、今言ったようなこととは程遠い現実が思い出されて、がっかりしてしまいます。また、未信者、求道者の方の中にも、信仰者に対してそのようなイメージを抱いて、自分はとてもまだそうはなれそうもないから、洗礼はまだ受けられないと考える方がおられるかもしれません。しかし、信仰者、キリスト者とはそのようなものだというのは勝手な思い込みであって、実際にはそのような絵に描いたような信仰者、キリスト者になれないのがリアルな信仰者なのです。今日読みましたローマの信徒への手紙を書いたパウロ大先生も、これだけ小難しい、立派な教えを書いているのだから、さぞ立派な聖人君主かと思いきや、よく見ると、私たちと同じように理想と現実のギャップに打ちのめされ、落ち込んでいるのです。今日示された箇所の少し前、7章22節以下のところではこんな風に言っています。「「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」パウロがここで語っているように、信仰者の生においては、二つの法則、支配力が対立しているのです。一つは、人間の肉の弱さに付け込んで人間を罪と死へ導く「罪の法則」であり、もう一つは、キリスト・イエスによって命をもたらす「霊の法則」です。私たち信仰者の生は、常にこの二つの支配力に晒されているのです。しかし、神は私たちの罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。つまり、キリスト・イエスによって、命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則から私たちを解放したのです。そのため、キリスト・イエスに結び付いている者、すなわちキリストの体なる教会に連なっている者は、罪に定められることはないのです。私たち信仰者は、この世にあっては、肉欲や性欲、さらには自己弁護、自己正当化など、人間を否応なく支配している肉の法則によって、不本意ながら、神に喜ばれない行為に及んでしまうことが避けられないのですが、キリストの霊を内に宿している限り、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となり、その霊によって、死ぬはずの私たちの体をも生かしてくださるのです。これが私たち信仰者の生の姿です。
3 神の子として生きる(展開2)
そして今日与えられた12節からは、信仰者、キリスト者の生のもう一つの側面が語られます。それは、神の霊によって導かれる者は皆、「神の子」なのだということです。
15節をご覧ください。ここでパウロは、霊には二種類あると述べています。一つは、律法の下にいる人を支配し、恐れに陥れる「奴隷とする霊」です。7章7節以下でそのことが語られているのですが、律法はそれ自体決して罪ではなく、聖なるものであり、善いものです。しかし、私たちが持っている肉の弱さの故に、律法を完全に守ることは不可能です。そのため、律法のもとではそれを守り損ねた結末への恐れに支配されることになります。これが「奴隷といる霊」の働きです。これに対し、もう一つの霊は、私たちを「神の子」とする霊です。この霊は、キリストを死者の中から復活させた神の霊であり、キリストと神の関係は父と子の関係です。キリストを神の子と信じる私たちは、この神の霊によって、私たちをも神の子としてくださるのです。子であるキリストが父である神に完全に従ったように、私たちも神に従う者とされます。それは、外形的には、主人に完全に従うことを求められる奴隷との関係と 似ていますが、奴隷が恐怖によって従うことを強制されるのに対して、父と子の間の行動原理は愛です。父は子に対して絶対的な愛で導き、子は父の愛に絶対的な信頼を寄せ、その愛に応えるのです。神の霊は、私たちをこの父と子の関係に招いてくださっているのです。本来、神の被造物に過ぎなかった私たちにキリストと同様の子としての身分を与えてくださった、神の養子としてくださったのです。
そして、この神の霊が私たちを神の養子としてくださったことによって、私たちは、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されました。「アッバ」というのは、「アーメン」や「ハレルヤ」と同じようにアラム語の音をそのままギリシア語に記した言葉で、「父」を意味する幼児語です。生まれた赤ちゃんが言葉を覚え始める最初の頃にお母さんに「マンマ、マンマ」と言うように、父親に対して「アッバ、アッバ」という、その言葉かどうかもわからないような赤ちゃんの声をそのまま拾った言葉です。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」これは、十字架の死の前夜、ゲッセマネの園で祈った主イエスの祈りです。主イエスが弟子たちを遠ざけて発した、天の父なる神への極めてプライベートな関係の中での呼びかけの言葉です。それと同じ言葉を私たちにも使うことを許してくださったというのは、本当に驚くべきことです。旧約聖書の時代の神は、人が神の聖なる領域に近づくことを禁じ、神の顔を見た者は死ぬと言われていました。大正から昭和初期に活躍した牧師・神学者である高倉徳太郎は、その著書の中で「神の対する考えが、甚だしく人本主義的になり、センチメンタルに流れつつある。神を「天のおとう様」などと称えて、神に甘ったれているのである。神の聖を汚すこと甚だしというべきである。」と嘆いています。それほどに本来、神は遠く、絶対不可侵の聖なる方なのです。その神を罪人である私たちが「天のお父さま」、「お父ちゃん」などと気安く呼んでいいとは、本当に驚くべきことなのです。それが許されたのは、主イエスが十字架の上で私たちの罪の贖いとして死んでくださって、私たちの罪を赦し、そして元々一被造物にしか過ぎなかった私たちを「神の子」としてくださったからです。奴隷としての身分の霊を受けたのではないのです。奴隷は、主人に対して忠実に生きますが、それは、もしそうしなければ罰せられるという恐怖がそうさせているのです。しかし、父と子の関係はそうではありません。父親がどんなに強面の人で、ほかの人からは恐れられていたとしても、その子は、父親の愛情を感じて、気安く「父ちゃん」と言い、言いたいことを言うのです。私たちも同じです。
そして、この「アッバ」という言葉は、礼拝の中で会衆が挙げる歓呼の声であるとも言われています。私たちの教会の皆さんは大変おとなしいので、説教の時や他の人が祈りを献げている時は無言で聞いておられますが、私が小さな子どもの頃通っていた教会では、説教や他の人の祈りを聞きながら感極まったような感じで「ああ主よ」、「アーメン」などと声を発していました。それと同じような感じで、「アッバ」「アッバ」と声を発していたのでしょう。そのように、ここで語られている神と信仰者の父子関係は、神と教会、神と会衆との関係と理解することが出来ます。教会に集う信徒一人一人は、神から愛され、「アッバ」と呼ぶことを許されている「神の子」同士なのだという理解です。それで、教会では霊によって結ばれた神の家族として、互いに兄弟姉妹と呼び合うのです。
4 神に義理を感じて生きる(結論)
さて、17節を見ますと「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」これはどういう意味でしょうか。相続人というと遺産相続を思い浮かべますが、そもそも神が死んで、その財産を私たちが受け取るということは考えられませんので、こ こは神の実の子であるイエス・キリストとともに、神の事業である神の国の建設に関与する、それも雇われ人ではなく、責任の一端を担う者として参与するものとされるということではないかと思います。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光も受けるからです。」とありますように、それは苦しみをも伴うものです。12節では、「兄弟たち、わたしたちには一つの義務があります」と書かれていますが、この「義務」という言葉を「義理」と訳した方がおりまして、うまい訳だなぁと感心したのですが、私たち信仰者は、私たちが神に対して何か特別な功績を挙げたということは全くないのに、神様の方が私たちを捉えて信仰を与え、神の子としてくださった。まさに一方的な恵みです。この恵みをくださった神に対して私たちは義理があるというのです。あるいは負債があると言ってもいいでしょう。その義理を果たす、負債を返済することとして、神の国の建設の一端を担うこと、たとえ微力であってもそのことに力を尽くすことこそ信仰者の責務であり、また喜びと言えるのではないでしょうか。
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