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2026年5月24日
「一つとなって、多様な言葉で」
横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨日(ペンテコステ)) 2022.5.24 杉野信一郎
「一つとなって、多様な言葉で」
聖 書 使徒言行録2章1~11節
中心聖句 使徒2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
讃美歌 こ94、347、406
1 一致と多様性(導入)
皆さん、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは、クリスマス、イースターとともにキリスト教の三大祝日でありますが、ほかの二つの祝日と比べるとだいぶ地味なイメージでありますので、「おめでとう」と言われてもピンとこない人もいるかもしれませんが、ペンテコステはイエス・キリストが昇天された後、弟子たちに聖霊が降されて伝道が始まった日、いわば教会の誕生日と言われる日ですから、私たちは教会の誕生を皆で「おめでとう」と祝うのです。そして、ペンテコステの日には、必ずと言ってよいほど読まれる聖書箇所が、今日も読みました使徒言行録2章1節以下の箇所です。昨年は、この箇所に今日の招詞で取り上げたヨエル書3章の話を加えて「聖霊の恵み」と題してお話しましたが、今年は、「一つとなって、多様な言葉で」と題してお話することにいたしました。それは、教会のあるべき姿を考える時、「一致と多様性」ということが大変重要なテーマであり、一致と多様性は対立するものではなく、互いに補完し合いながら共同体を形成する重要な原理であると思ったからです。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコも、五旬祭の日に弟子たちが集まっているところに聖霊が降った時、異なる言語や背景を持つ人々が聖霊によって一つに結ばれたことを「多様性の中の一致」と捉えてその重要性を説いています。しかし、言うは易く、行うは難しで、実際には、教会組織の中でも、少数者の意見が多数者の意見によって抑圧されることもしばしば起こっていて、とても残念な思いをさせられます。そこで、今日は、一致と多様性という点に着目して、ペンテコステの日の出来事を見てまいりたいと思います。
2 一つとなっているところに聖霊が臨む(展開1)
ペンテコステの出来事は、こう始まっています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになっていると…」
復活の主イエスは、弟子たちの前に40日間にわたって現れて、彼らに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と命じられました。そして、主イエスは弟子たちが見ている前で天に上げられて行ったのです。残された弟子たちは、先が見えない不安の中で、主イエスが命じられた通り、エルサレムのある家に毎日集まって祈っていました。そこは、主イエスが十字架に架けられる前の晩、弟子たちと過越の食事をしたあの家であったかもしれません。また、そこにはユダの代わりに選ばれたマティアを加えた十二使徒のほかにも、彼らとともに主イエスに従ってきた主だった弟子たちや女性たちもいたかもしれません。詳しいことは記されていませんが、とにかく一つになって祈り続けていたのです。
そして五旬祭の日がやってきました。五旬祭は、主イエスが十字架刑に処せられた過越の祭りから7週間後に行われる祭りで、過越祭、仮庵の祭りと共にユダヤ教の三巡礼祭の一つです。そのため、エルサレムには、西はローマ、東はペルシャに至る世界各地から多くの巡礼者が集まっていました。この日も、弟子たちはいつもの家の部屋に一つになって集まって、祈っていたところ、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡りました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。これは一体どのような状況でしょうか。先ほど、子どもたちにやってもらった絵の伝言ゲームでペンテコステの絵本の絵を使いましたが、その絵をご覧頂くと、弟子たち一人ひとりの頭の上に「炎のようなもの」がとどまっている絵が描かれていて、文章も「ほのおのようなものがあらわれて、ひとりひとりの頭の上にとどまりました。」と書かれています。それでペンテコステの式色はこの炎のイメージから赤とされ、講壇布も牧師のストールもペンテコステの日は赤いものが用いられ、講壇に飾られる花も赤い花、今日はポインセチアを飾っていますが、通常、ペンテコステには、炎をイメージするグロリオーサの花が飾られます。ですから、つい炎が主体のように思ってしまうのですが、聖書の記述は「炎のような舌」、つまり「舌」の方が主体となっています。そして、ここで「舌」が現れたということにとても大きな意味があるのです。どういうことかといいますと、この「舌」という言葉は、元のギリシア語聖書ではグロッサという単語なのですが、実はこのグロッサは「言葉」という意味でも用いられる単語なのです。つまり、天から現れた炎のような舌が、枝分かれしながら弟子たち一人ひとりの上に留まったのは、実は、天から弟子たちに言葉が与えられたということを意味しているとも言えるのです。そして、一人ひとりの頭の上にこの「炎のような舌」がとどまると一同は聖霊に満たされました。復活の主イエスが弟子たちに現れた時に、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」(ルカ24:49)、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言っていた主イエスの約束が成就したのです。
聖霊は、バラバラに散らばった個人の上にではなく、「一つとなった群れ」の上に降りました。ここに教会の原点があります。福音書記者ヨハネが伝えた「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」という主イエスの言葉で言われているように、人は主イエスの体である教会から離れては実を結ぶことはできないのです。たとえ、教会に連なるそれぞれの人の考えや背景が違っていても、同じ主を待ち望んで教会にとどまっている限り、聖霊はその人に豊かに送られるのです。教会は、同じ意見を持つ者の集まりではなく、同じ主を待ち望む者たちの群れなのです。したがって、教会における一致とは、画一的になることではなく、多様性を受け入れ、違いを受け入れ合うことなのです。
3 多様な言葉で語らせる聖霊(展開2)
さて、聖霊が与えられた弟子たちの身に驚くべきことが起こりました。弟子たちは、上から与えられた“霊“が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したというのです。それまで周りの人々から身を隠すように鳴りを潜めていた弟子たちは、口々に色々な国の言葉で語り出したのです。聖霊が降った時の激しい風の音に加えて、弟子たちの口から発する大声が家の外にまで響き渡り、その物音に驚いて大勢の人たちが集まっていました。その中には、巡礼のため世界各地からやって来たユダヤ人やユダヤ教への改宗者がいました。9節以下に地名が列挙されていますが、パルティア、メディア、エラムは、今日のイラン、メソポタミアは今日のイラク、カパドキア、ポントス、アジア、フリギヤ、パンフィリアは今日のトルコ、エジプトとリビアは北アフリカでキレネはリビア東部の町です。これらの地域からやって来ていたユダヤ人、或いはユダヤ教改宗者の人々は、だれもかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまったと言います。弟子たちが普段話していた言葉は、アラム語です。そして、彼らの出身地はガリラヤで、その付近にはギリシア系の住民も住んでいたので、彼らが語った「ほかの国々の言葉」は、当時の国際語となっていたコイネー・ギリシア語であった可能性はありますが、8節で「めいめい生まれた故郷の言葉」と言っていますから、やはり「ほかの国々の言葉」は、ペルシャ語やトルコ語、アラビア語など、それぞれの地域のネイティブの言葉であったと考えられます。それをガリラヤ出身の弟子たちが語るということは普通では考えられないことだからこそ「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。」と言って驚き怪しんだのです。さらに不思議なことには、これらの多様な言葉が一斉に語られたのにも拘わらず、それを聞いた人々は、それぞれ自分の生まれ故郷の言葉だけを聞き分けることが出来たということです。語られている言葉は多様でしたが、しかし、語られている言葉の内容は、皆、「神の偉大な業」であり、それが様々な国から来ていた人々に一致して伝わっていたのです。
旧約聖書には、これと対照的な状況が語られている箇所があります。創世記11章のバベルの塔の物語です。初め、世界中は同じ言葉を使って、同じように話していました。人々が「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」と言った。…主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「…我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされた…。一つの言葉で世界を統一し、人々を力によって支配して、神のように全能になろうとした大国の目論見は、神によって実現の一歩手前で止められました。しかし、それから一千年以上後のペンテコステでは、神の愛によって多様な言語が用いられ、人々は福音によって結ばれました。弟子たちが、聞く人それぞれのお国言葉で話しかけたら、それを聞いた相手の人の心はパッと開いて思わず笑顔になったのではないでしょうか。神は、キリストの喜びのメッセージを世界中の人々に伝えるために、再び、一つの言語に揃えようとは考えませんでした。そうではなく、多様な言語を通して福音を伝えるという方法を取られたのです。同じ言語に統一するのではなく、多様性の中に一致を生み出す。これが聖霊の働きです。ペンテコステは、相手の心を開く言葉で喜びを言い広めたという出来事だったのです。
現代を生き る私たちにも、神は「多様な言葉」を与えておられます。それは、何も、英語やドイツ語、ヒンディー語、韓国語といった外国語のことだけではありません。私たちが暮らしている身近な社会の中で語られる色々な言葉、子どもに語る言葉、高齢者に語る言葉、苦しむ人に寄り添う言葉、SNSでの言葉、行動や沈黙で示す言葉など、相手や状況に応じて適切に、相手を思いやって用いられる言葉。私たちは、無意識のうちに、使う言葉によって相手を傷付けてしまうことがありますが、聖霊は、私たち一人ひとりに、その人にしか語れない言葉を与えてくださいます。教会は、聖霊によって、そのような愛に満たされた多様な言葉が響き合う共同体なのです。
4 一つとなって、多様な言葉で福音を(結論)
ペンテコステの日、 弟子たちは「一つ」とされ、 しかし語られた言葉は「多様」でした。一致と多様性。 この二つが同時に成立するのが、聖霊の働きです。
私たちもまた、同じ主を仰ぎ見て「一つ」とされ、それぞれに与えられた「多様な言葉」によって福音を証しするよう招かれています。
今日、聖霊は、私たちにも新 しい言葉を与え、新しいつながりを生み出し、新しい理解と和解をもたらします。
「一つとなって、多様な言葉で」、これこそ、ペンテコステの教会の姿です。
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