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過去の説教

2026年5月17日

「大祭司の祈り」

横須賀上町教会主日礼拝(復活節第7主日) 2022.5.17 杉野信一郎

「大祭司の祈り」

  • 聖  書 ヨハネによる福音書17章1~13節

  • 中心聖句 ヨハネ 17:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

  • 讃 美 歌  こ6、336、417


1 父を見つめるイエスのまなざし(導入)

 イースターの日以来歩んできた復活節も今週で終わり、来週はペンテコステの日を迎えます。教会の暦では、先週5月14日木曜日はキリストの昇天日とされています。それは、「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、『…あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた。」このように使徒言行録1章に記されているからです。そして、その10日後のペンテコステ、聖霊降臨の日から、時代はイエスの時から教会の時へと移り変わっていきます。しかし、ヨハネによる福音書においては、キリストの昇天については明確な記述はなく、復活と聖霊降臨は同時的或いは一体のものとして捉えられています。

 私たちは、ここ数週間にわたってヨハネによる福音書13章から16章にわたって記されているキリストの御受難の前に語られた告別説教と呼ばれる長大な説教を読んでまいりましたが、今日の箇所は、主イエスが弟子たちに告別説教を語り終えた後に続いて献げられた主イエス御自身の祈りです。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」とありますように、別れの説教を語る間、ずっと弟子たちに注がれていた主イエスのまなざしは、一転して天におられる父なる神に向けられました。聖書には、主イエス御自身が献げられた祈りの言葉は、有名なゲッセマネの祈りのほかいくつか記されていますが、どれも短い言葉しか記されておらず、一章を費やして記された長い祈りは今日の箇所だけです。しかも、ゲッセマネの園の祈りの時もそうでしたが、多くの場合、主イエスは弟子たちから離れて一人で祈られることが多かったのですが、この時ばかりは、弟子たちに話し終えられた後、その場で天を仰いで祈り始められたのです。祈りは人に聞かせるためのものではなく、神さまとの対話でありますから、主イエスが普段祈る時に、一人になって祈りに集中されたことは当然と言えば当然でしたが、この時は、主イエスには最早祈りのために一人になる時間は残されておらず、主イエスは弟子たちがいる目の前で、ただ目線を弟子たちから天の父に移すだけで祈られたので、弟子たちは幸いにも主イエスと天の父なる神との対話を間近で聞くことが出来たのです。実際には、弟子たちは主イエスの祈りの言葉しか聞こえなかったとしても、主イエスが御顔を天に向けて祈る時、天の父もこちらに御顔を向けてくださっているということは、弟子たちも感じ取ることが出来たのではないかと思います。ああ、神さまがこちらを向いて祈りを聞いてくださっている。そう感じることの出来た弟子たちは、どれほど慰められたことでしょうか。

 

2 「栄光を与えてください」(展開1)

 この祈りは、古くから「大祭司の祈り」と呼ばれていますが、それは、この祈りが神と人との間を取り持つ執り成しが祈りの中心となっているからです。主イエスは、これまで人々に神の国の到来を告げ、神の御心を啓示し、人々を悔い改めへと導くという預言者的な働きをしてこられましたが、主イエスは、この祈り以降、十字架の出来事に至るまで、神と人との間に立って執り成しと犠牲を献げる大祭司としての職務に集中されたのです。そして、この祈りですが、内容は大きく三つの部分に分かれています。1節から5節までが「主イエス御自身のための祈り」、6節から19節までが「弟子たちを執り成す祈り」、そして20節から26節までが「信じる人々を執り成す祈り」となっています。

 主イエスは、はじめに「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」とご自分のための祈りを献げます。何だ、まず自分に栄光を与えてくださいとは、何か利己的な感じがして、そんな祈りをしていいのか、そんな祈りを聞いてもらえるのかと思うかもしれませんが、それは誤解です。ここで主イエスは、ご自分のために栄光を求めているわけではなく、父なる神の栄光を現すためにご自身に栄光を与えてくださいと願っているのです。具体的には、主イエスはここで、十字架の出来事を通して父の救いの計画が完成しますようにと祈っているのです。その結果、4節では「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」と語ります。「成し遂げた」という言葉は、主イエスが十字架上で息を引き取られた時に発した言葉であることからわかりますように、ヨハネ福音書では、十字架は父の救いの計画のクライマックスであり、屈辱ではなく、むしろ栄光を現す出来事と捉えています。つまり、1節及び5節で重ねて述べられている「子に栄光を与えてください」とは、「あなたの子である自分を十字架に架けて、全ての人の罪の贖いとしてください」との祈りなのです。そのことによって、父なる神の栄光を現すとともに、子なる神であるイエス・キリストは、父なる神から委ねられた人、すなわち独り子を信じるすべての人に永遠の命を与えることができるのです。そして、5節では、御子イエス・キリストを十字架につけることによって天に上げ、「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」与えてくださいと願います。御子にとっては、世の初めの時そうであったように、父なる神のみもとにいることこそが栄光なのです。

 それから、2節から3節にかけて、大変重要なことが語られています。それは「永遠の命」のことです。2節には「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」と語られています。この「永遠の命」とは、肉体と共に朽ちることのない命のことではありますが、ここではより深い意味が述べられています。3節です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」聖書において「知る」という言葉は、単に知識を得るという意味で使われることは稀で、むしろ感ずるとか、関わりの中で知る、脳ではなく心で認識することとして用いられています。例えば、創世記4章1節の「アダムは妻エバを知った。」というのは夫と妻との親密な接触を意味していますが、ここで言われている「イエス・キリストを知る」という言葉も、イエス・キリストと人格的に深く交わることを意味しています。父なる神とイエス・キリストとの深い人格的な愛の関係において生きることこそ永遠の命に生きるということなのだと言うのです。

 

3 世のためではなく、彼らのために(展開2)

 そして、6節からは、いよいよ弟子たちへの執り成しの祈りが語られます。6節で「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」とありますが、これは直接には弟子たちのことを指しています。弟子たちは、「私に従ってきなさい」という主イエスの招きの言葉に応えて従ってきたのですが、彼らの選びは主イエスが独自に行ったことではなく、そもそも彼らは父なる神が選び出してくださった者たちであるというのです。続けて主イエスは、彼らの行いについて父なる神に申し述べていきます。「彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」と述べます。さらに10節では「わたしは彼らによって栄光を受けました」とまで言っています。べた褒めです。実際のところ、彼らは主イエスを信じて従っては来ましたが、主イエスの言葉を誤解したり、理解が不十分だったり、主イエスの教えをそっちのけで仲間内で言い争いをしておりましたし、この後も、主イエスが捕らえられると主イエスのことを知らないと言ったり、逃げ出したりといった体たらくです。けれども主イエスは、そんなぐちをこぼしたり、皮肉を言ったりすることは一切なさらず、「彼らのためにお願いします。」「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」「真理によって、彼らを聖なる者としてください。」と願うのです。この祈りを近くで聞いていた弟子たちは、どう思ったでしょうか? 聞いていて恥ずかしくなったかもしれませんが、それほどまで自分たちを徹底して弁護してくださる主イエスの愛をしみじみと感じることができたのではないでしょうか。

 9節でお願いする時、「世のためではなく」と敢えて述べていますが、ここで述べられている「世」は人間世界全体のことではなく、「神の言葉を聞こうとしない人々」「主イエスを神の子と認めようとしない人々」を指しています。主イエスは決して「世」の人々はどうでもよいと考えていたわけではありませんが、それよりも、まずここでは、弟子たちが守られることを強く願われたのです。それは、主イエスはもはや世にいなくなり、彼らは世に残るからです。20節以下では、将来、主イエスを信じる人々のための執り成しが語られていきます。これは、弟子たちによって将来興される教会のための執り成しの祈りであるとも言えますが、その人々が信じる者となり、教会が興されていくのは、弟子たちの言葉の働きによるのです。そのためにも、彼ら弟子たちは、敵対する世の中にあって守られなければならないのです。

 

4 父子のように一つとなるため(展開3)

 11節をご覧ください。主イエスは、世を去って行くにあたって、「主イエスに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」と祈ります。そして21節では、彼らの言葉によって主イエスを信じる人々、すなわち将来興されていく教会のために、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と祈ります。

 ここで「わたしたちのように」、また「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言っているのは、父なる神と子なるキリストが一つであるように、弟子たちを、そして教会を一つにしてくださいと祈っているのです。先ほど、父なる神さまとイエス・キリストを知ることは、人格的な愛の関係を生きることであり、それが永遠の命だと話しましたが、父なる神と、子なる神と、ここでは触れられていませんが聖霊なる神の、三位一体の永遠で神秘的な交わりの中に招き入れてくださっているという、これ以上ない恵みを示しています。そのことによって、私たちの教会は、一つとなるよう勧められているのです。


5 主イエスの喜びによって心が満たされる(結論)

 主イエスは、この祈りを十字架の出来事の前夜に弟子たちの前で父なる神に献げました。それは、主イエスがまだ世にいる間にご自身の喜びを弟子たちの心の内に満たすためでした。主イエス御自身が抱いている喜びとは何でしょうか。それは、地において父なる神の御心通りになること、すなわち独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること、そのために弟子たちが、そして教会が父・子・聖霊の三位一体の交わりの中に入り、それによって一つとなることです。一つとなると言っても皆が同質になるということではありません。私たちは、一人ひとり違う立場や意見を持っておりますが、多様な考えの人たちや立場の違う者たちが、互いの声を聞き、互いの立場を尊重し、ただ御言葉の真理によって一致することを目指し、主イエスの喜びを皆で分かち合う者でありたいと思います。

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