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過去の説教

2026年5月3日

「良いぶどうと酸っぱいぶどう」

横須賀上町教会主日礼拝(復活節第5主日)2026.5.3 杉野信一郎

「良いぶどうと酸っぱいぶどう」

聖  書  ヨハネによる福音書15章1~11節

中心聖句  ヨハネ 15:5  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

讃美歌  こ4、こ60、393


1 つながる――(導入)                                        

今日は、先週に続いて、最後の晩餐の席上で主イエスが弟子たちに向けて語られた決別説教と呼ばれる長大な説教の中から、有名な「ぶどうの木と枝」の話が示されました。ヨハネは、主イエスご自身がどういう方であるかを「わたしは○○である」、ギリシア語でエゴーエイミという言い方で語られた言葉を全部で7つ紹介しています。「わたしは命のパンである。」、「わたしは世の光である。」、そして「わたしは羊の門である。」と「わたしは良い羊飼いである。」、この二つは先々週の説教で触れました。それから「わたしは復活であり、命である。」、「わたしは道であり、真理であり、命である。」、そして7つ目が今日示されました「わたしはまことのぶどうの木」です。ギリシア語のエゴーエイミは、英語で言えばI amで、その後ろに「命のパン」だとか「世の光」という言葉を続けているのですが、このエゴーエイミ、I amだけですと「わたしはある」という意味になり、これは、旧約聖書の出エジプト記で、モーセが燃える柴のところで神に出会った時に、神が「わたしはあるという者だ」と言われた言葉と同じです。これは、主イエスが主なる神と同じく、天地万物が創造される前からおられた方であるということを意味しています。

そして、この7つの中で、主イエスが十字架の死を前にして、最後に語られたたとえが今日の「わたしはまことのぶどうの木」という言葉です。今日読んで頂いた1節から11節のまでの間に「つながる」という言葉が9回も語られておりますように、主イエスが十字架の死を前にして、十字架の死の後においても御自身としっかりつながっているようにと弟子たちに熱く語りかけている言葉と言えるでしょう。

「つながる」ということは、現代社会の中での生き方を語る上でも、とても大きなキーワードとなっています。数年前、新型コロナウイルスの感染が全世界に広まった際には、人と人とが密に接することが出来なくなり、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが阻害され、人と人とのつながりが分断されました。その時の何とも言えない息苦しさが今なお生々しい記憶としてよみがえってきますが、あの時ほど、人と人とのつながりというものが生きていく上で大切なことなのだと思わせられたことはありません。また、現代社会においては、そうした人と人とのフェイス・トゥ・フェイスのつながり以上に、情報ネットワークを介したつながりが生活に不可欠なものとなってきました。人々はSNSを通して世界中の人々とつながることが出来るようになり、人々はスマホを片時も離すことが出来ないほどになりました。しかし、そうしたつながりが増えれば増えるほど、逆に孤独を感じたり、つながりのストレスに苦しんだりする人も増えてまいりました。

「つながる」ということは、確かに大切なことではありますが、それはただ単につながればいいということではなく、問題は、何とつながるのか、そしてどのようにつながるのかという点にあります。

 

2 「良いぶどう」と「酸っぱいぶどう」(展開1)

今日の聖書箇所で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われました。主イエスは何故ご自身をぶどうの木にたとえられたのでしょうか。背景には、古来よりぶどうの木はイスラエルを象徴するシンボルとして用いられてきたということがあります。詩編80編には「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました。」とありますが、これは、神がイスラエルというぶどうの木を約束の地に植え、それを育てる働きをしてこられたということを表しています。しかし、イスラエルの民は約束の地で豊かになると、異教徒たちとの交わりの中で異教の神々を崇め、神が自分たちに注いでくださった恵みを忘れてしまいました。エレミヤは「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに/どうして、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレミヤ書2:21)」と嘆き、イザヤも「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。(イザヤ書5:4)」と言ってイスラエルの不実を嘆く「ぶどう畑の歌」を歌いました。イスラエルの民は、自分たちを愛して、植えて、育ててくださった真の神とのつながりを断ち切り、異教の神につながりました。それによって、神の民イスラエルは、神の愛に応えず、義の実を実らせることが出来なかったのです。このイスラエルの民が象徴するのは、神以外のものに頼り、神の思いから離れた生き方です。私たちもまた、自分の力、世の価値観、他者からの評価、お金や成功といったものに「つながる」ことで安心を得ようとします。しかし、それによって得られるのは「酸っぱいぶどう」という果実でしかないのです。

 

3 イエスこそ「まことのぶどうの木」(展開2)

さて、旧約聖書におけるぶどうの木は、神が望んだ良いぶどうの実を実らせることが出来ませんでしたが、神は御自身の計画を投げ捨てることはありませんでした。神の民イスラエルの失敗を背景として、神はその独り子イエス・キリストを世に遣わされたのです。旧約のイスラエルが果たせなかった使命を、イエス・キリストが自ら十字架に架かられることによって完全に果たされたのです。イエス・キリストは新しいイスラエルの中心であり、神の命を私たちに流し込む「まことのぶどうの木」です。私たちの周りには、私たちの心を真の神から逸らさせる「偽りのぶどうの木」がたくさん茂っていますが、私たちは、そのような偽りのぶどうの木ではなく、まことのぶどうの木であるキリストにつながるべき枝なのです。

では、キリストにつながる枝として生きる生き方とは、具体的にどのような生き方なのでしょうか。先ほど、私は、ただ単につながればいいということではなく、何とつながるのか、そしてどのようにつながるのかが問題なのだと申しました。何とつながるかということについては今お話ししたとおりですが、では、私たちは、まことのぶどうの木である主イエスとどのようにつながるべきなのでしょうか。SNSでつながっている人たちとの関係のようなつながり方でよいのでしょうか。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉は、主イエスと弟子たちの関係、また主イエスと私たちとの関係が、ただ単に接続しているということ以上の関係であることを示唆しています。それは、枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスの体の一部だということです。そして、木と枝に流れている命は一つであるということです。つまり枝である私たちに流れている命は、まことのぶどうの木である主イエス御自身の内に流れている命と全く同じ命であり、キリストは御自身が持っている命の一部分だけを私たちに分け与えてくださっているのではなく、ご自身が持っているすべてのものを分かち合ってくださるのです。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉は、私たちにもう一つのつながり方を示唆しています。それは、あなたがたと呼ばれている同じく枝である者同士の関係です。これは、具体的には主イエスの体である教会の中の兄弟姉妹の関係です。それは、同じ趣味や気の合った者同士の集まりであるサークルのように、仲間相互の人間関係によるつながりではなく、それぞれがぶどうの木である主イエス・キリストにつながっているという一点でのみ関わっている共同体であるということです。枝である私たちは、それぞれ形や大きさ、働きに多少の差はあれど、まことのぶどうの木である主イエス・キリストの内にとどまっていなければ実を結ぶことは決してないということでは同じなのです。今日の箇所には、「つながる」という言葉のほかに「とどまる」という言葉も何度も使われていますが、実はこの「つながる」という言葉と「とどまる」という言葉は、元は同じ「メノー」という同じギリシア語の言葉なのです。つまり、主イエスが私たちに向かって「わたしにつながっていなさい」と語られる言葉の意味は、主の体である教会の内にとどまっていなさいという言葉でもあるのです。

では、私たちは、キリストの内にとどまって、具体的にどのような生き方をすることが求められているのでしょうか。そのことが7節以下に二つのことが語られています。

一つ目は、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」ということです。キリストにとどまるとは、まず御言葉に根を下ろすことです。御言葉を聞き、黙想し、生活の中で思い起こすとき、私たちの内にキリストの命が流れ込みます。御言葉は、私たちの価値観を整え、判断を導き、心を守ります。枝が幹から養分を受け取るように、私たちは、御言葉を通してキリストの命を受け取るのです。

二つ目は、「わたしの愛にとどまりなさい」ということです。キリストにとどまるとは、愛の内にとどまることでもあります。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じられました。愛は感情ではなく、キリストから流れ出る命の実です。自分の力ではなく、キリストの愛にとどまるとき、私たちは愛する力が与えられます。

御言葉と愛、この二つはキリストにつながる枝が実を結ぶための両輪なのです。


4 私たちの喜び(結論)

主イエスは、今日の箇所の最後でこう言われました。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

「わたしの喜び」とは何でしょうか。それは、主イエスが父なる神を愛して、その戒めを守り、神の愛の中を歩む中で持っておられる喜びです。それと同じ喜びが、私たちの内に満たされるためだと仰るのです。

しかし、率直なところ、私たちは、戒めに従うと聞くと、何か拘束されているように感じて、ついつい敬遠したい気持ちが湧いてくることがあるのではないでしょうか。そして、そんなことよりも自分のしたいこと、神とは関係のない趣味や娯楽に没頭することの方に喜びを感じ、そちらの方を優先してしまうことが多くはないでしょうか。

確かに、そうした趣味や娯楽の類は、私たちの日頃の心の疲れを癒し、リフレッシュして、また明日から頑張ろうという気持ちを起こしてくれます。これらは、神が与えてくださった良いものであり、それ自体が悪いわけではありません。しかし、それらは私たちの心を一時的に満たすことはできても、魂の深い渇きを癒すことはできません。主イエスはここで、神の戒めに従い、その愛にとどまる歩みの中にこそ、本当の喜びがある。そのことをあなたがたも知ってほしいと望んでおられるのです。

わたしたちは、この地上にある間はまことに不完全なものでありますから、なかなか主イエスが望まれたことを十分に受け止めきれないところがありますが、主イエスは、そのような私たちを愛し、いつかその喜びを心から感じることが出来るよう忍耐強く待っていてくださるお方です。そのことを心に留めつつ、主イエスが示してくださった愛に包まれて生きてまいりたいと願います。

日本基督教団 横須賀上町教会

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