

過去の説教
2026年2月8日
「驚くべき出来事」
横須賀上町教会主日礼拝(降誕節第7主日) 2026.2.8 杉野信一郎
「驚くべき出来事」
聖 書 マルコによる福音書2章1~12節
中心聖句 マルコ2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
讃 美 歌 こ119、459、458
1 カファルナウムの家で(導入)
今年に入って私たちは、マルコによる福音書を通して主イエスの宣教の歩みをたどって来ています。主イエスは、ガリラヤでの宣教をガリラヤ湖畔のカファルナウムの会堂から始められました。人々は、そこで聞いた主イエスの教えに驚き、また、汚れた霊に取りつかれた男が癒されるのを目の当たりにして驚いて、主イエスの評判は、たちまちガリラヤ中に知れ渡ることになりました。主イエスと弟子たちはシモンとアンデレの家に向かい、そこでシモンのしゅうとめや集まってきた大勢の人たちの病気を癒した後、一旦カファルナウムを離れてガリラヤ中の会堂を巡って宣教し、悪霊を追い出されてから、数日経って、再びカファルナウムに帰ってきました。おそらく主イエスは再びシモンの家に帰ってこられたのでしょう。するとそれを知った大勢の人たちがその家に押しかけて来ました。病人や悪霊に取りつかれた人を連れて来た人も大勢やって来て、家の戸口の辺りまで隙間もないほど人で一杯になりました。中には律法学者のように主イエスに批判的な人たちもいたようですが、そんな大勢の人 たちを前に主イエスは御言葉を語っておられました。
すると突然、一同の頭上からギシギシという不穏な音とともに泥の塊がぱらぱらと落ちて来て、辺りは埃がもうもうと立ち込めてきました。どうやら誰かが屋根の上に上ってきたようです。これはどうしたことかと人々が見上げると、突然、屋根がバリバリと剥がされてぽっかりと大きな穴が開き、青空とともに四人の男の顔が覗いたかと思うと、その穴から一人の病人が寝かされた床がするすると釣り降ろされてきたのです。当時のパレスチナの家には外階段がついていて、簡単に屋根の上に上がれたようです。その屋根も平らで梁と垂木の上に木の枝を敷いて泥で塗り固めたもので比較的簡単に剝がすことが出来たようです。とは言え他人の家の屋根に勝手に上がって屋根を壊すのは非常識なことであり、大勢の人の頭上でそれをすることは危険極まりないことで、居合わせた人々は驚きの余り騒然となったに違いありません。
2 男たちの信仰(展開1)
この床に寝かされて釣り降ろされた人は中風であったとあります。中風とは、脳卒中などの後遺症で全身の麻痺した人のことですが、イエスという人がどんな病も癒してくれるといううわさを聞いて、自分も何とかお会いして癒してもらいたい、そう思っても自力ではどうすることも出来ないもどかしく切ない思いを募らせていたことでしょう。この人とこの人を床に乗せて運んできた四人の男たちがどのような間柄であったかはわかりませんが、もしかしたら彼らは、以前、主イエスの教えを聞き、そこにいた病気の人を癒しておられたのを見て、この人も主イエスのところに連れて行ってやりたいと思ったのかもしれません。何としてでも治りたいという、この人の切実な願いを叶えてやりたいと思って、この人を床に乗せてシモンの家まで担いできたのです。ところが家に着くと、そこには既に大勢の人がいて戸口に近づくことも出来ない。せっかくここまで連れて来たのに、主イエスまであとちょっとなのに、この機を逃したらいつ会えるかどうかもわからない。誰から何を言われてもいい。とにかくこの人を助けたい。そんな居ても立っても居られないという思いの中で、前代未聞の大胆な行動に出たのかもしれません。当の中風の人はどんな思いだったでしょうか。自分のためにここまで尽くしてくれる四人への感謝。四人のお陰でここまで来れたけれどここの家の人には大きな迷惑をかけてしまって、合わせる顔もない。吊り下げられていく寝たきりの自分の身体を見つめる大勢の人の視線が痛い。恥ずかしい。そして、何よりも主イエスはこんなふうにやって来た自分のことをどう思うだろうか。不安な気持ちが込み上げていたことでしょう。釣り降ろされた床が着地して、この人と主イエスの目が合いました。主イエスが何と言われるか、人々は固唾を吞んで見守っています。本人は勿論のこと、そこに居合わせたほとんどの人は、イエスさまはきっと彼の病気を癒してくださることを期待していただろうと思います。ところが主イエスが発した言葉は驚くべき言葉でした。「子よ、あなたの罪は赦される。」この人もこの人を連れて来た四人の男たちも、またここに居合わせた多くの人々も、主イエスのこの答えには肩透かしをくらったような思いをしたのではないでしょうか。彼らが期待していたのは、病気が癒されること、苦しみや悲しみから解放されることだったからです。しかし、主イエスが語られた言葉は、彼の最も深い所にある必要に答えるものだったのです。彼は確かに病に苦しんでいましたが、その病の根底にあるのは罪という問題です。病を治しても罪という問題にまでメスを入れなければ本当の解決にはならないからです。そこで主イエスは、彼の根源的な問題にまで遡って、その解決と祝福を与えたのです。
ここで注目しておきたいことは、「イエスは彼らの信仰を見て」そのように答えられたということです。この「彼ら」には中風の人も含まれるかもしれませんが、重点はその人を助けようとした四人の男たちにあります。つまり、癒される本人の信仰もさることながら、周りの人の信仰が大切だと言うことです。ですが、ここで言っている「信仰」というのは、普段私たちが言っている「信仰」とは少し違う気がします。「信仰」とは、イエスは神の子であり、救い主キリストであることを信じ告白することと私たちは考えます。それと比べると、彼らがしているのは、ただの神頼みのようにも見えます。けれども、「信仰」と訳されるピスティスというギリシア語には、真実とか信頼という意味があります。主イエスが見た「その人たちの信仰」とは、この人をどうか助けて欲しいという願いを叶えてもらうための彼らの非常識とさえ言えるほどのひたむきさです。そこには主イエスが必ず応えてくださるという揺るぎない信頼があります。隣人の救いを自分のことのように求める彼らのひたむきさに主イエスは驚き、そこに人間としての真実を見たのです。主イエスは、その驚きによって行動を起こされたのです。
3 癒しと罪の赦し(展開 2)
この「あなたの罪は赦される」と告げた主イエスの言葉がどれほど重い言葉であるか、驚くべき言葉であるかは、それを聞いて反発する律法学者たちを通して知らされます。彼らは「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と心の中でつぶやきました。罪を赦す権威を持っておられるのは神お一人だけだという彼らの主張は正しいものです。もし、人がそれを口にしたとしたならばそれはまさしく冒瀆行為です。けれども、彼らは決定的な誤りを犯していました。それは、イエスが神であるということを認めなかったことです。そこに彼らの不信仰があるのです。主イエスは、そんな律法学者たちの心の中を見透かして、こう問います。9節です。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
「あなたの罪が赦される」と言うだけならば誰でも出来るが、本当に赦されているのかどうかは目に見えないので確かめようがない。だから、権威を持っていない者が出まかせで言っている可能性もあるし、このイエスという男は、そんな出まかせを言うペテン師ではないかと思っているのです。それに対して、「起きて、歩け」と言うことの方は、歩けるようになったかどうかは、その後、一目瞭然になるので、本当にそ の力がなければとても言えないことだと思っているのです。主イエスは、そのような律法学者の思いを察知してこのような問いを発した上で、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と宣言してから中風の人に「起きて、歩け」と言って、その人を癒されました。人々は、この一連の出来事を目の当たりにして、皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美しました。主イエスは、律法学者がより難しいことと思っている「癒し」を行うことによって、御自分が罪を赦す神の権威も持っている者であるということを明らかにされたのです。
4 あなたの罪は赦された(結論)
ここで私たちは、神が私たちの罪をどのように赦されるのかということを思い起こさなければなりません。それは、神が独り子である主イエス・キリストを世に遣わし、その主イエス御自身が私たちの罪をすべて背負って十字架に架かって死んでくださったことによってでした。9節で「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」との問いに対し、律法学者たちやそこに居合わせたほとんどの人たちは、『起きて、床を担いで歩け』と言う方が難しい と考えましたが、それは『あなたの罪は赦される』と言うことの本当の難しさを理解出来ていなかったからそう思ったのです。『あなたの罪は赦された』と宣言することの方が実は難しいことなのだということは、私たちが主イエス・キリストの十字架の出来事をじっと見つめる時にこそ、本当にわかってくることなのです。そして、主イエスの十字架と復活の出来事こそ、最も驚くべき出来事なのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を驚きをもって見つめ、喜び踊るように神を崇めるのです。
私たちは、「子よ、あなたの罪は赦されている」という御言葉を聞くために教会へと招かれた者です。ここには既に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との主の御声を聞いて悔い改め、イエス・キリストを主と告白し、洗礼を受けて、教会という新しい神の民の一員とされた者たちが連なっています。そして、あの日、四人の男たちが癒しを必要とする友人を主イエスの御許に連れて行ったように、既に教会に連なっている一人ひとりは、救いを求めている愛する仲間たちが主の御許に導かれることを祈り続けたいと思います。そして、この私たちの教会が、主イエスがおられる家として驚きに満ちた群れであり続けられるよう祈り続けていきたいと思います。
日本基督教団 横須賀上町教会
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