

過去の説教
2026年2月1日
「種蒔きの真実」
横須賀上町教会主日礼拝(降誕節第6主日)2026.2.1 杉野信一郎
「種蒔きの真実」
聖 書 マルコによる福音書4章1~9節
中心聖句 マルコ4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
讃 美 歌 こ7、53、195
1 ガリラヤでの主イエスの活動(導入)
今日示された聖書の御言葉は、教会に長く通っておられる皆さんであればよくご存じの「種を蒔く人」のたとえのお話です。私たちは、先々月のクリスマスの後、マルコによる福音書によって主イエスのこの地上での活動について示されてきましたが、今日示された4章は主イエスのガリラヤでの活動を記録している部分のちょうど真ん中辺りにあたり、マルコによる福音書の中でも特別の意味合いを持った箇所です。
マルコによる福音書は、他の福音書と比べて表現が完結だということは以前お話しましたが、もう少し詳しく言うならば、その記述内容は主イエスが何を行ったかという、主イエスの行動に焦点が当てられていて、その反面、主イエスが何を語ったかという、主イエスの教えの記録が極めて少ないという特徴があります。そのマルコによる福音書の中で主イエスの教えが収録されている数少ない箇所が今日示された4章であり、もう一つが13章の「オリーブ山の説教」です。主イエスの宣教は、前半はガリラヤで、後半はエルサレムで展開されましたが、この主イエスの宣教には共通する一つパターンがあります。主イエスはまず行動し、それからその行動の意味を説明するというパターンです。その中でこの二つの箇所というのは、前者は1章から3章までに記録された主イエスのガリラヤでの行動を説明し、後者は10章以降のエルサレム及びそこに向かう旅の途上での主イエスの行動を説明する箇所となっていることです。
そして、今日読みました4章2節には「イエスはたとえでいろいろと教えられ」たと書かれていますが、4章には4つのたとえ話が収録されており、それらはいずれも「神の国」より正確には「神の王国」、「神の支配」とはどのようなものかを説明するものです。主イエスのガリラヤでの宣教は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で始まりましたが、これはただ単に主イエスの宣教の第一声であったというだけでなく、主イエスがガリラヤで語った中心的なメッセージでありました。主イエスが行った悪霊追放や癒しの業は、すべて神の支配がこの地上世界に到来していることの具体的な現れであったのですが、しかし人々はそのことを理解できませんでした。それどころか律法学者たちのように、主イエスの力ある業を見てこれは悪魔の力を借りて行っているものだと非難する者たちもいました。けれども主イエスはこの4章に至るまではその活動の意味を説明することなく、悪霊追放や癒しの御業を続けてこられたのです。
2 「種を蒔く人」のたとえの説明(展開1)
さて、今日読みました「種を蒔く人 」のたとえは、種蒔きした人が蒔いた種が落ちた場所の違いによってどうなったかを述べています。道端に落ちた種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨の中に落ちた種がまったく実を結べなかったのとは対照的に、良い土地に落ちた種が実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなったという明暗をくっきりと物語っています。
これを聞いた人々は、この話をどのように受け止めたでしょうか。主イエスがこのたとえを語られた後、弟子たちや主イエスに近しい人たちの質問に対して答えられた言葉から見ると、おそらくほとんどの人々は、主イエスが語られたこのたとえ話の意味を理解できず、この人はいったい何の話をしているのか、田舎で農業を始めた時の苦労話でもしているのだろうかと思ったかもしれません。それでマルコによる福音書では、そのあと13節以下の所でわざわざ「種を蒔く人」のたとえの説明を記しているのでしょう。今日はその箇所はお読み頂きませんでしたが、内容はこういうことです。つまり、種を蒔く人は御言葉を語る人で、種は神の御言葉、すなわち福音そのものである。そして、種が蒔かれた土地はあなたがたの心である。道端とは、落ちた種を撥ねつけるような頑なな心を持った人のことで、サタンが来てその人に蒔かれた御言葉を奪い去ってしまう。石だらけで土の少ない所とは、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、心の奥深くに根付いていないために艱難や迫害に会うとすぐに躓いてしまう信仰の弱い人のことである。茨の土地とは、御言葉を受け入れてその人の信仰は成長するが、その後、富の誘惑や色々な欲望によって思い煩いが生じて信仰が枯れてしまう人のことである。それに比べて、良い土地とは、御言葉を聞いて悟る人のことで、その人は豊かな信仰の実りを受けるのである。こうした解釈から示されることは、福音の御言葉を撥ねつけたり、世の中の誘惑や思い煩いに負けることなく、良い畑のようにイエスさまが語られる福音をしっかり受け止める信仰を持つことが大切だということです。このような理解は、もちろん聖書の正しい理解の一つであり、私も小さい頃からそのように理解していましたが、では自分は本当によい畑になっていると言えるのか、躓きの石一つなく純粋にイエスさまの言葉を信じて歩んでいるのかと問われたならば、それに「はい」と答えることはとても難しいと思うのです。むしろ、私の心は、道端の固い土ではないか、折角御言葉を頂いたのにそれを受け止める深い信仰などない石だらけの土地ではないか、世の中の色々な誘惑に負けてばかりの茨の土地ではないかと思うことの方が多いくらいです。皆さんはいかがでしょうか。「よかった。私は良い土地だった」と思われる方はどれくらいおられるでしょうか。そのように感じておられる方にとっては、このたとえ話で示される教えは紛れもなく福音であると思いますし、そのような方をとてもうらやましく思うのですが、私のように自分は良い土地だとは思えない人にとっては、このたとえ話は素直に福音とは受け止められないものとなってしまいます。もしイエスさまが「良い土地」を引き合いに出して「あなたがたは良い土地になりなさい」と語っておられるのだとしたら、自分は他の三つの土地だ、とても良い土地にはなれそうもないと思っている人はどうなるのでしょうか。「残念だけど、福音の種が心に根付かなかったんだ。あなたたちは不幸だ」とイエスさまは仰るのでしょうか。私はそうではないと思うのです。私は、このたとえ話に福音であるのだとしたら、本当にこの種を必要としているのは何の手入れも必要ないような良い心の持ち主ではなくて、むしろ道端や石だらけの土地や茨の生い茂る土地のような心の持ち主ではないかと思うのです。何故なら、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)と語られるお方であるからです。
3 不思議な種蒔き(展開2)
では、そのように考えて、改めてこの箇所を読み直してみましょう。すると、この種を蒔く人の蒔き方に不思議さを覚えるようになりました。何故、この人は種が色々な所に飛び散るように蒔いているのでしょうか。日本の農家の種蒔きを思い浮かべるとき、このたとえ話で語られている種蒔きはとても無駄の多い蒔き方をしているように感じます。アメリカのような広大な農地であれば飛行機を使って畑や道路の違いもお構いなく空中散布した方が効率的という場合もあるかもしれませんが、聖書の時代のイスラエルでは考えられないことです。むしろ、これは当時のパレスチナ地方での種蒔きの一般的な形であったというのが大方の聖書学者の理解です。つまり日本では畝を造ってそこに種を蒔くのですが、パレスチナでは、最初に手で畑一杯に種を蒔き、その後、耕して種に土を被せていくのが一般的であったと言います。茨も完全に取り除かないで地表に出ている部分だけを焼いたり刈り取ったりするだけなので、麦の発芽と同時に茨も伸びて麦が実を結べないということも起こったと言います。それにしても種だってただで無制限にあるわけではありませんから、それなりに無駄にしないように蒔いたことでしょうけれども、このたとえ話で語られている種蒔く人の蒔き方は、効率的に沢山の収穫を得るため畑からはみ出ないように蒔くというのではなく、敢えて畑以外の土地にも種が落ちるように蒔いているように思えるのです。そこに、道端や石だらけの土地や茨の中で必死に生きている人達を見捨てることなく、諦めないで福音を届けたいという意思を感じるのです。
では、実際、主イエスはどういう人たちを念頭に置いてこの四つの土地を語られたのでしょうか。はじめの所で、主イエスがこのたとえ話を語られたのは、主イエスが悪霊追放や癒しの御業を通して表された神の国の到来を説明するためだと申しました。つまり、神の子である主イエス御自身がこの世に来られたことが神の国の到来、神の支配の始まりだということですが、人々はそのことを容易に理解できません。主イエスの教えや働きに最も否定的に反応したのは、ファリサイ派やヘロデ党、律法学者といった人たちでした。彼らは主イエスの教えや働きによって自分たちの権威が脅かされると感じて猛烈に主イエスに反対しました。「種を蒔く人」のたとえで道端として表されているのは彼らのことです。彼らの自尊心に溢れた頑なな心はサタンに付け入るスキを与えてしまうのです。それに対し、多くの人々は概して主イエスを歓迎しているように見えましたが、それは主イエスが悪霊を追放し、病気を癒してくださるからであって、主イエスが教える新しい生き方には全く関心がありませんでした。悔い改めて、敵を愛し、人に仕えなさい、自分のことばかり考えず、自分より弱い人たちを助けなさいと言われても、そんな生き方を受け入れたいとはこれっぽっちも思っていなかったのです。彼らは、石だらけの土の少ない土地にたとえられています。彼らは主イエスの教えを聞いて、中々良いことを言っているなと感心しますが、自分のこととしては受け入れず、実行しないので、主イエスの教えが根を張らないのです。
4 種を蒔く人の希望(結論)
こうして、主イエスが行動と教えを通して伝道していた神の国は大きな抵抗にあっていたのです。弟子たちはその様子を見て不安に感じていたことでしょう。そのような状況の中で、主イエスはこの「種を蒔く人」のたとえ話を、神の国の希望を示すために語られたのでした。
神の国が抵抗にあうということは、主イエスがその教えを宣教された時代に起こった過去の出来事ではなく、その後もずっと続いている出来事です。何故なら、神の国は、「既に」主イエスの到来をもって始まりましたが、その完成は「未だ」ならず、主イエスの再臨の時まで待たなければならないからです。キリストが昇天された後の初代教会においても、私たちが生きる現代においても、その「既に」と「未だ」の狭間にあって、神の国に対する抵抗が続 いているのです。そうした中で、このたとえが語る神の国の希望は、教会に勇気を与え続けてきました。厳しい迫害に晒されていた初代教会は、この希望に励まされて神の国の福音を語り続け、やがてローマ帝国を覆い、全世界を覆うほどの大木となって行きました。しかし、私たちが生きる現代社会は、世界各地で権力者たちが自らの利益を拡大するために力を振るい、力を持たない国や人々を蹂躙し、「敵を愛しなさい」という主イエスの御言葉も空虚に響く神なき世界の様相を呈しています。また、キリストの宣教の御業を引き継いでいる教会は、世界でも、日本でも、人々の教会離れが進み、様々な困難を抱えています。
しかし、私たちの教会は、神さまから御言葉の種を頂いている者の共同体です。そこに集う私たちは、主イエスによって神の子とされ、聖霊を頂いて神の国、神の支配の中で生きる者とされています。今日の召詞でルカによる福音書の一節を読みました。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」。この希望に生かされて、私たちは歩んでいるのです。
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