top of page
Mask group.jpg
Frame 1841.jpg

過去の説教

2026年1月11日

「天と結ばれる洗礼の出来事」

 横須賀上町教会主日礼拝(降誕節第3主日) 2026.1.11 杉野信一郎 

「天と結ばれる洗礼の出来事」 

  • 聖 書 イザヤ書63章15~19節、マルコによる福音書1章9~11節 

  • 中心聖句 マルコ1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 

  • 讃美歌 こ137、277、475 


1 イエスの洗礼 

クリスマスから2週間が経ち、今日は主の顕現後最初の主日です。カトリック教会ではこの日を「主の洗礼の祝日」と定めておりますが、私たちの日本基督教団でも主イエスが宣教活動を始めるに先駆けて洗礼を受けられたことを覚えて礼拝を献げています。わたしたちも、信仰者の出発点である洗礼の時を思い起こしつつ、この新しい年を歩み出したいと思います。 

福音書の記者マルコは、主イエスに起こったこの出来事をたった3節の短い言葉で簡潔に報告しています。まず9節ですが、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」とあります。マルコはこの福音書を、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で書き始め、最初に洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりの荒れ野に現れて、人々に罪の赦しを得させるため、悔い改めの洗礼を授けたことを記しています。「そのころ」というのは、直接にはこの洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けていた頃という意味ですが、同時に、それはどのような時代であったのかということにも目を向けさせる言葉です。元々、イスラエルの民は神に選ばれた民として律法を与えられ、その教えを守ることを通して神の祝福と恵みを受ける者とされていましたが、度重なる罪によって与えられた国を失い、マラキを最後に400年以上にわたって預言も絶え、国土は異国の支配下に置かれ、イスラエルの民に対して、天の扉は完全に閉ざされていた、そのような時代に洗礼者ヨハネが現れて、人々に悔い改めを呼び掛けたのです。元々、ユダヤ教には、年に1回エルサレム神殿で大祭司によって行われる大贖罪日の儀式があり、それによって民の罪は赦されるとされていましたが、ヨハネは、律法に定められている儀式では、いずれ訪れる神の裁きには堪えられない、一人ひとりが真心をもって、神の前に悔い改めをする必要がある、そのしるしとして、洗礼を受けることを人々に勧めたのです。ユダヤ教にも身体を水で洗い清める洗いの習慣はありましたが、ヨハネが行った悔い改めの洗礼は、それとは全く違って、神に背き続けてきたそれまでの罪にまみれた生き方を根本的に方向転換して神に従う新しい人生の再出発のしるしなのです。 

ヨハネの呼び掛けに応えて、ユダヤ各地から多くの人たちが、悔い改めの洗礼を受けにやって来ました。彼らも、堕落したユダヤ教の儀式によっては神様の審判には耐えられないと考えたでしょう。そして、そうした群衆と同じように、主イエスもガリラヤのナザレからやって来て、ヨハネから洗礼を受けられました。マルコは、このことをさらっと一言で書いていますが、よく考えてみると、これはとても奇妙な行動です。何故なら、ヨハネが授けていたのは悔い改めの洗礼だからです。ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と言っています。その方こそ主イエスであることは明らかです。そしてマルコは記していませんが、マタイは主イエスが洗礼を受けるためにやって来た時に、ヨハネがそれを思いとどまらせようとしたことを記しているように、ヨハネは洗礼を受けにやって来たイエスが自分よりも優れた方であり、来るべきメシアであると確信していたようです。しかも、私たちは、このお方がパウロが「罪とは何の関りもない方」と証ししている方であることを知っています。では、何故、何の罪も犯しておられない主イエスが悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか? 悔い改めることなどないのだから、悔い改めの洗礼も受ける必要ないではないかと思われるのですが、敢えて主イエスはヨハネから洗礼を受けられた。それは、主イエスが自分だけ特別な存在に留まるのではなく、自ら罪人とともに生きる姿を示され、私たちの先頭に立って、わたしたち罪人を救いに導くその道を自ら歩まれようとされたということなのです。 


2 天が裂ける 

では、洗礼を受けると、どうなるのでしょうか? 教会には、洗礼という儀式があります。洗礼は、聖餐とともに、キリストによって定められた神の恩寵を与るための儀式で、洗礼を受けるとキリスト者、クリスチャンになります。洗礼では水が用いられますが、やり方にはいくつか方法があり、横須賀上町教会では、滴礼といって、頭にわずかな水をつける形で行われます。これとは違うやり方として浸礼というやり方があります。教会によっては、講壇の床下に洗礼漕と呼ばれる小さなプールのような水槽があって、そこに張った水の中に全身を沈めます。洗礼漕ではなく、川や海で洗礼を行うこともあり、私は、両親が通っていた教会の洗礼式で、厚木市の中津川で洗礼を授けたのを見たことがあります。ヨハネの洗礼も形としてはそれと同じようであったことでしょう。洗礼に水を用いるのは罪を洗い流すという意味がありますが、それともう一つ、水によって一度死ぬということが現わされています。全浸礼はそのことを最もよく表していますが、全身を水に沈めることは葬りを、そこから出てくることは復活を意味しています。 

では、主イエスが洗礼を受けられたとき、どういうことが起こったでしょうか。3つのことが書かれています。まず10節です。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、〝霊〟が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になった。」とあります。 

まず、一つ目の出来事は「天が裂けた」ということです。天が裂けるとはどういうことでしょうか。実は、旧約聖書も含めた聖書全体で「天が裂ける」ということは2箇所しか書かれていません。1か所はマルコのこの箇所で、もう1か所は今日朗読しましたイザヤ書63章の19節です。このように書かれています。「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。」 

これは、天が閉ざされて、神様が私たちと関わってくださらなくなってしまったということです。日本の神話で天岩戸というお話があります。太陽の女神である天照大御神が、弟の須佐之男命の乱暴な行動に怒り、天岩戸という洞窟に隠れてしまい、世界は暗闇に包まれてしまいます。この状況を打開するために、天鈿女命が踊り、神々が騒ぎ立てると、天照大御神は外の様子が気になり、少しだけ岩戸を開けます。その際、神々は鏡で彼女の姿を映し出し、彼女が自分の美しさに驚いて岩戸から出てくることに成功します。これにより、再び太陽が昇り、世界は明るさを取り戻すというお話ですが、イザヤが訴えている状況もそれとよく似た状況です。イスラエルの民が神に背き続けたため、神は、長い間、天を閉ざしてイスラエルとの関わりを絶ってしまわれた。そのため、主の民イスラエルの人々は、暗澹たる状況に陥ってしまった。どうか主よ、天を裂いて、わたしたちのところにくだってきてくださいとイザヤは願っているのです。マルコは、ここで天が裂けるという表現によって、救い主メシアが世に遣わされるというイザヤの預言が、この主イエスの洗礼において成就したのだということ、或いは、「水の中から上がると」とありますから、主イエスの復活の時に成就するのだということを伝えようとしているのでしょう。 

また、「裂ける」という表現は、この福音書の最後の重要な場面で、もう一度用いられています。それは、主イエスが十字架の上で息を引き取られた時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という出来事です。人の立ち入りを禁じられた神殿の至聖所とその外を分かつ神殿の垂れ幕が裂けたということは、人と神との間を分かつ隔てが取り払われたということです。マルコは、この二つの「裂ける」という言葉で囲まれた、主イエスの洗礼に始まり、十字架の死によって終わる主イエスの公生涯は、神と人との和解のための生涯であったということを伝えようとしているのでしょう。 


3 聖霊が降り、祝福を受ける 

さて、洗礼の際に起こった2つ目の出来事は「〝霊〟が鳩のように御自分に降って来た」ということです。聖霊が「鳩のように」降ったのです。鳩は、ノアの物語では洪水の終わりを告げたように、新しい世界の始まりを象徴しています。また、創世記1章では、神の霊が水の面を動いていたと記されており、そこから創造の業が始まりました。イエスの洗礼の場面は、まさに「新しい創造」の始まりです。神の霊がイエスの上にとどまり、救いの働きがここから本格的に始まりまったのです。それ故に、主イエスのこの時の洗礼は、救い主としての任職式だと言うことも出来るでしょう。主イエスは、自分が救い主としての使命に召されているとの自覚は、この時よりも前からすでに明確に持っておられたのではないかと思います。しかし、実際、いつからその働きを始めるのか、主イエスは、その時を待ち続けました。そんな中で、洗礼者ヨハネが現れ、人々に洗礼を授け始めた。それを耳にして、主イエスはヨハネのもとを訪れて洗礼を受けて、そこで天におられる神から任職を受けて、その働きを始められたのです。 

そして、洗礼の際に起こった3つ目の出来事は11節の「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたということです。これは主イエスのアイデンティティを明確に示す言葉です。主イエスは、この時よりも前から自分が救い主として遣わされた神の子だという自覚を持っていたかもしれませんが、主イエスが自らの身体を水に沈め、殺されて葬られる覚悟を示された時、初めて、天におられる神が「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を掛けられたのです。 

ここに、救い主イエス・キリストの告白と、それに答える天の父なる神の愛の言葉と、主イエスとともに働く聖霊の降臨という、三位一体の神の交わりが初めて示されているのです。 


4 洗礼を受けるとは 

しかし、この3つの出来事は、水の中から上がられた主イエスが見聞きしたものであって、この時、ほかの誰もそのことに気付いた者はいませんでした。では、何故、マルコはここで主イエスの身に起こったことをつぶさに書き記すことが出来たのでしょうか。それは、この時の出来事を主イエス御自身が誰かに、おそらく弟子たちに語り聞かせたからに違いありません。では、何故、主イエスはそのことを包み隠さず弟子たちに伝えられたのでしょうか。それは、この時起こった3つの出来事が、ただ主イエスのみに関わる出来事ではなくて、私たちすべての人の救いに関わる出来事だからです。 

「天が裂ける」という出来事は、この時はまだ主イエスにしか示されていませんでしたが、それは預言者イザヤが祈り求めたように、私たちを暗闇の中から救い出し、イエスを通して、神と人間の間にあった隔てが取り除いてくださったという出来事です。私たちが受ける洗礼は、閉ざされていた天の窓を開いてくださった主イエス・キリストを信じ、その身にすべてを委ねることによって、神との交わりが回復され、天と私たちを結び付ける出来事なのです。 

そして、主イエスが洗礼を受けた時、神の霊がイエスの上にとどまり、救いの働きがここから本格的に始まりましたが、私たちの洗礼においても同じ霊が注がれ、朽ちることのない新しい命が与えられます。洗礼とは「古い自分が死に、新しい自分が生まれる」出来事であり、神の霊によって新しい創造に参与する瞬間なのです。 

さらに、主イエスが洗礼を受けた時、天から「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が聞こえてきましたが、これは私たちが洗礼を受ける時にも与えられる言葉です。洗礼は、私たちが何かを成し遂げたから受けるのではありません。神が先に私たちを愛し、「あなたはわたしの子」と呼んでくださるから受けるのです。洗礼は、神の無条件の愛に包まれる出来事なのです。 

洗礼は一度きりの儀式ですが、その恵みは生涯にわたって続きます。私たちは日々、神の子として生きるよう招かれています。弱さや罪に悩むとき、洗礼の恵みを思い起こすことができます。「あなたはわたしの愛する子」という神の声は、今も私たちに響いています。 

既に洗礼を受けておられる皆さんは、主の聖餐を受けるたびごとに、そのことを思い起こし、喜びに満たされます。まだ、洗礼を受けておられない皆さんも、主イエスが私たちに示してくださったこの大きな愛を受け止めてくださって、一日も早く洗礼を受けられて、この喜びをともにして頂けたらと願う次第です。 

主イエスの洗礼の出来事は、神が私たちに近づき、天を開き、霊を注ぎ、愛を語りかけてくださる出来事です。この恵みの中で、私たちもまた天と結ばれた者として歩んでいきたいと思います。 

日本基督教団 横須賀上町教会

〒238-0017 神奈川県横須賀市上町2丁目3

© 日本基督教団 横須賀上町教会附属 めぐみ幼稚園 All Rights Reserved.

bottom of page