top of page
Mask group.jpg
Frame 1841.jpg

過去の説教

2026年10月25日

「神の経綸を暗くする者は誰か」

横須賀上町教会主日礼拝(降誕前節第9主日礼拝) 2026.10.25 杉野信一郎

「神の経綸を暗くする者は誰か」

  • 聖  書  ヨブ記38章1~18節

  • 中心聖句  ヨブ38:2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。

  • 讃 美 歌  58、363


1 天地創造とヨブ(導入)

先週は、この分厚い聖書66巻の一番最後の文書「ヨハネの黙示録」の御言葉を読んで、半年近くの長きにわたって続いた聖霊降臨節が終わり、日本基督教団の教会暦では、今日から新しい1年の歩みが始まります。その最初の主日には、毎年、神の歴史の始まりである天地創造に関するテキストが読まれることになっています。そして、ここから旧約聖書の歴史を駆け足で辿ってカウントダウンしていって、救い主メシアであるイエス・キリストの待降・降誕を迎えるわけです。

さて、天地創造の物語としては、聖書66巻の一番初め、創世記1章に記されている神が天地を七日間で創造された物語と、それに続く2章と3章に記されたアダムとエバの人間創造の物語が有名ですが、聖書にはそれ以外にも天地創造について記した箇所がいくつもあります。詩編には8編や104編など、神の天地創造の業を賛美する箇所がいくつもありますし、箴言8章22節以下もその一つですが、今日示されたヨブ記にも38章から41章にかけて、神の創造の御業の偉大さがこれでもかというほど示されています。

ヨブは、東の国一番の富豪でしたが、神を畏れ、悪を避けて正しく生きた信仰の人でした。ところが、ある日、主の前にサタンが現れて、「ヨブが神を敬うのは、神がヨブとその一族、財産を守っているからで、それらが奪われれば、ヨブは神を呪うに違いない」と言いました。すると主は、「それでは、彼と彼のもの一切、お前のいいようにしてみるがよい。」と言って、ヨブをサタンの為すがままにさせたのです。ヨブは、ある日突然、子どもたちや僕、全財産を失い、自分自身も重い皮膚病に罹って苦しみます。妻からは「神を呪って、死ぬほうがましでしょう」と言われましたが、それでも、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸も頂こうではないか」と言って、信仰に立ち続けようとします。見舞いにやってきた友人たちと共に七日七晩地面に座って黙って耐えますが、遂に「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と、自らの運命を呪い始めます。ヨブは、不幸さえも神から与えられるものだと知っている信仰者でしたが、自分の苦しみの意味が分からず苦しんでいました。友人たちは、人が苦しむのはその人の犯した罪の結果なのだ。だからあなたの罪を懺悔して悔い改めれば救われると主張しますが、ヨブには自分が罪を犯した心当たりなどないのです。ヨブは言います。「人を見張っている方よ、わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれが何だというのでしょうか。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。なぜ、わたしの罪を赦さず、罪を取り除いてくださらないのですか。」ヨブは、友人たちの答えに納得出来ず、悩み、憤ります。

 

2 誰が悪いのか(展開1)

私たち人間は、不条理なことが起こると、ずっと「なぜ?」という問いかけをします。悪事を重ねていた人が不幸な目にあったのを見て、人は、それを自業自得だと言います。悪い結果にも、また、よい結果にも、そうなるには理由がある、原因があると、人々はよく考えます。これを因果応報と言います。外敵に襲われてエルサレムの神殿が破壊され、イスラエルの王国も滅びてしまったのは、イスラエルの民が、主なる神を裏切って、バアル信仰に走り、悪事を重ねたことの罰だ。このような考え方を応報思想と呼びます。ヨブの友人たちは、この応報思想によって、ヨブの不幸を理解しようとしました。友人だけではなく、ヨブ自身も、応報思想が染みついていたからこそ、自分はこんなひどい結果を被るほどの悪事はしていないはずなのにと思って悩むのです。けれども、世の中には、因果応報では説明できない不条理な出来事がいくらでも起こっています。無謀運転による交通事故や、無差別殺人事件に巻き込まれて、何の関係もない人が命を落としたり、地震や津波、台風などの自然災害によって多くの方が命を落とされたりするのを見て、人々は、どうして罪もない人々が命を落とさなければならなかったのかといって、嘆き悲しみます。先週、南米エクアドルのカトリック教会で、ミサの最中に祭壇の後ろの壁に架かっていた大きな十字架が落下して、神父の後頭部を直撃して即死するというショッキングな事故が起こりました。また、1755年にポルトガルで起こったリスボン大地震では、日曜日の朝、教会で礼拝していた多くの信者ががれきの下敷きとなって命を落としました。この時、全能の神様が、何故、よりによって礼拝中の多くの信者の命を奪うような酷いことをなさるのか、というような議論がキリスト教関係者の間で盛んに行われました。全知・全能で善なる神が存在するならば、なぜこの世界に悪や苦しみが存在するのか、このような議論のことを神義論と言います。ヨブの場合は、最後まで神の存在を疑うことはなく、むしろ苦難の中で「神は確かに生きておられる」と確信しましたが、その全知・全能で善なる神が、そんな自分をどうしてこんなに苦しめるのか、そのことに神は何も答えてくれないと悩みました。

 

3 神の経綸(展開2)

さて、友人たちとの議論が続く間、ヨブの問いかけにも拘わらず、ずっと沈黙を守り続けていた神が、遂にその沈黙を破って、嵐の中からヨブに答えます。神御自身の応答をひたすら求めていたヨブの願いは、遂に叶えられたのです。けれども、その内容は、ヨブの問いに応えるものではありませんでした。逆に、神がヨブに対し、「お前はいったい何者だ」と問うものでした。

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」

経綸とは、あまり耳慣れない言葉だと思いますが、日本語大辞典では「国家を治めること」とあります。ギリシア語では「オイコノミア」と言い、家を意味する「オイコス」から派生した言葉です。つまり、「神の経綸」とは、神が創造し、計画し、現に統治している天地万物、天体の運行や生態系の秩序などの一切を管理するすべての過程を指しています。ヨブは、神による全宇宙の創造の業、計画、統治の仕組みのことをよく知らないのに、それらについて不平、不満を言っている。「神の経綸」にケチをつけるとは、一体、お前は何様のつもりだ、というのです。ヨブに対する神の答えとしては、もうそれだけで十分でしょう。けれども神は、ヨブが何者であるかということを思い知らせるために、ご自分が創造された世界のことを一つ一つ取り上げて、ヨブとの関係を問いただしていきます。それは、38章4節から41章26節まで延々と続きます。そして、それを語りだす前に、ヨブに向かって「男らしく、腰に帯をせよ。」と言って、これからの問答に真剣勝負として向かわせようとします。4節から18節は、神が創造された大地についてです。神が大地を創造したとき、ヨブよ、お前はその場にいたのか。いたのなら、知っていることを言ってみよ。一度でも命令したり、指示したりしたことがあるなら行ってみよ。地の果てまで行ったことがあるか、大地の広がりをしらべたことがあるか、言ってみよ。そう言って、神御自身が、その時の様子をいささか文学的にではありますが、詳しく説明します。

結局、神がこれらのことを延々と語り、問い続けている間、ヨブは、一言も主張や反論、答えを発することも出来ません。そして、遂に、主が語り終えると、ヨブはこう告白します。42章2節から6節です。

「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました。…

わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。

…あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」

ヨブは、神との1対1の対話の中で、自分の身の上に起きたことを理由に、神のみ旨、神の驚くべき御業をあげつらっていたけれども、今はその考え方を改めますというのです。最後の「悔い改めます。」という訳は、誤解を生じやすい訳なので、一言補足しておきますが、ヨブは、自分に罪があったためにひどい目にあった。だからその罪を悔い改めて赦しを乞おうと考えたわけではありません。ヨブは、自分が罪を犯したとは認めていないのです。ただ、自分に罪があるかないかに拘わらず、神はご自身のみ旨に従って、幸福も不幸も与えることが出来る方なのだと、主を仰ぎ見て、そのように悟ったのです。

 

4 人は何ものか(結論)

このヨブ記38章から、私たちは二つのことを示されました。

一つは、人間とは何ものかということです。

神は、創造の御業を余すところなくヨブに語り、圧倒的な力をヨブに見せつけました。その中で、人はどんなに賢く神のように振舞っても、被造物であることに変わりはなく、決して創造者にしてこの世界の主権者たる神の領域には立ち入ることは出来ず、ただ、神によって生かされる存在でしかないということです。

今日は、招詞で、詩編8編4~5節を読ませて頂きました。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。

月も、星も、あなたが配置なさったもの。

そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」

ヨブ記と詩編8編は、とてもよく響きあっていると思います。神が創造されたこの宇宙は、如何に雄大で、神の威光に満ち溢れたものであるか。それに対し、一人の人間の何と小さなことか。しかし、そんな塵芥にしかすぎないような小さな人間一人ひとりを、神はしっかりと御心に留め、顧みてくださっているということです。

そして、もう一つのことは、人は、生きていく中で、幸福なこと、不幸なことに出会いますが、それは、自分の行いの良し悪しとは、直接には関係していないということです。ヨブが悟っていたように、不幸も幸福と同じく神が賜るものであり、人の身の上に何が起こるか、人がどのような出来事に遭遇するかは、ただ、神のみ旨によるのだ、神の経綸の中で定められているのだということです。もし、人が自らの行いで自らの人生に幸福をもたらしたり、不幸を回避したりすることが出来ると考えるならば、それは、ただ、人間のおごりであるとしか言えません。確かに、不幸な出来事は出来るなら避けたいと思うのは自然なことでしょう。主イエスも、十字架の死を目前にして「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られたように、苦難の盃は、人間イエスとしては、出来れば避けたいものでしたが、そうした人間的な思いよりも、神の経綸が行われることを望まれたのです。

弱い私たちにとって、実際、辛く、悲しい、不幸な出来事に出会ったときに、一人でそれを乗り越えていくことは、難しいかもしれません。けれども、私たちには、私たちのために十字架に架かってくださったイエス様が、いつも寄り添ってくださいます。

私たち主イエス・キリストに従う者は、イエス様の助けと慰めを頂きつつ、天と同じく、この地上において、神の経綸が行われることを願い、神の栄光が表されることを喜びとして生きる者へと高められたいと思います。

日本基督教団 横須賀上町教会

〒238-0017 神奈川県横須賀市上町2丁目3

© 日本基督教団 横須賀上町教会附属 めぐみ幼稚園 All Rights Reserved.

bottom of page