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過去の説教

2026年10月18日

「主の日を待ち望んで生きる」

横須賀上町教会主日礼拝(聖霊降臨節第22主日礼拝) 2026.10.18 杉野信一郎

「主の日を待ち望んで生きる」

  • 聖  書 ヨハネの黙示録7章2~4、6~12---節

  • 中心聖句 黙7:9-10 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」

  • 讃 美 歌  469、528


1 終末の黙示――(導入)

みなさま、おはようございます。今日は聖霊降臨節第22主日、5ヶ月近くの長きにわたって続いてきた聖霊降臨節は、今日が最終日です。私たち日本基督教団の教会暦では、待降節の前に降誕前の期節が置かれ、天地創造の初めからキリストが世に現れる前の旧約聖書の時代を辿っていきます。その後、待降節に入り、クリスマスの日から始まる降誕節においてイエス・キリストの公生涯を辿り、灰の水曜日から始まる受難節ではキリストの十字架の死に至る苦難の時を覚え、受難日の後のイースターの日から始まる復活節では、復活して昇天するまでの復活のイエス・キリストの歩みを辿ります。キリストが昇天した後、聖霊が地上に送られたペンテコステの日から始まる聖霊降臨節では、使徒書を通して教会の歩みやそこに召された信徒の歩みについて示されます。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛の業に励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」と、私たちが告白しておりますように、教会の時の終着点は、世の終わりの時、主イエス・キリストが再びこの世に現れて、神の支配が天上の世界のみならず、この地上世界において完成する日です。聖霊降臨節の最終主日の今日、私たちは、この主の日、主の再臨の日を覚えて礼拝を守っています。そして、今日の礼拝のために示された聖書の箇所が、創世記から始まるこの分厚い聖書66巻の一番最後に納められたヨハネの黙示録の7章の御言葉なのです。聖書は、人類救済の歴史を解き明かすために、創世記の天地創造から始め、ヨハネの黙示録において、著者ヨハネが見た世の終末と新天新地の出現の幻をもって終わります。そこで描かれているのは、世の終わりに起こる神の審判と、神の完全な支配です。世々のキリスト者たちは、その日の到来を待ち望みつつ、この世における信仰の戦いを戦い抜いてきたのであり、その戦いがどんなに厳しいものであったとしても、その日の到来に希望を抱きつつ、信仰の旅路を歩み続けているのです。

このヨハネの黙示録が書かれたのは、紀元一世紀の終わり頃であると言われています。紀元30年代前半にイエス・キリストが十字架刑に処せられたその年から教会の歩みが始まりました。それからおよそ30年後に起こったユダヤ戦争によってエルサレムは神殿もろともローマ帝国によって破壊され、さらにその30年後の紀元95年頃には、皇帝ドミティアヌスが自身の像を帝国各地に置き、皇帝を神として拝むことを強要する政策をとりました。偶像礼拝としてこれを拒否するキリスト者たちは、厳しい迫害に晒され、殉教者も現れました。黙示録の著者ヨハネもエーゲ海に浮かぶパトモス島に流されました。彼はそこで迫害に苦しんでいるアジア州の諸教会を励ます目的でこの黙示録を書いたのです。

 

2 ローマ帝国滅亡の預言――(展開1)

それでは、黙示録の中身を見ていきましょう。さきほど7章2節から12節まで、途中5節から8節は飛ばして司式者に朗読して頂きましたが、聞いていて、聖書の他の文書とは違って、何やら謎めいていて何を言っているのかよくわからないと思われた方も多いかと思います。それは、この文書が黙示録という特殊な文書であることに関係しています。「黙示録」と聞くと、私は、前にも申しましたが、フランシス・コッポラの「地獄の黙示録」という映画を思い出します。ベトナム戦争の惨状とリヒャルト・ワーグナーのワルキューレが印象的な映画ですが、「黙示録」とは一般に世界の終わりとか破局を意味する言葉です。また、「黙示」という名の通り、その記述は、謎めいた数字や情景に満ちていて、具体的な固有名詞はほとんど出てきません。そのため、一見、何を言っているかわからない文章となるわけですが、それは、迫害が厳しい社会の中で、誰にでもわかる文章であったら、すぐに当局から厳しく取り締まられてしまう、そういうことを避けるために敢えてそのような記述にしているのですが、それでも、これを読んだ教会の人たちはすぐにその意味していることがわかったのです。

ヨハネの黙示録は、まず1章でヨハネへの啓示が示された顛末が書かれ、続く2章から3章のところで小アジアの7つの教会に対するメッセージが記されます。そしていよいよ4章からヨハネが見た幻の中身が紹介されていきます。それは天上の礼拝の情景で、神が玉座に座っています。神の手元には計画を記した巻物があり、小羊がそれを解いていきます。ここで出て来る小羊とはイエス・キリストのことですが、解かれるごとに次々と不思議な出来事が起こります。最初の封印を解くと、白い馬に乗った騎士が現れます。白馬はローマ帝国の宿敵パルティアを意味し、ローマが外敵の侵入により困難に陥ることが預言されます。次に、赤い馬に乗った騎士が現れます。赤は流血を現し、ローマが戦争や内乱に襲われることが預言されます。三番目には黒い馬が乗った騎士が現れ、彼の登場と共に穀物の値段が高騰し、ローマが飢饉に見舞われることが預言されます。第四の封印が解かれると、青白い馬に乗った騎士が現れ、外敵の侵入や飢饉などによって多くの者が命を失い、ローマが滅びることが預言されます。続いて第五の封印が解かれると、殺された殉教者たちが「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と大声で叫ぶ声が聞こえますが、それに対して、しばらく静かに待てとの声が聞こえ、迫害が今しばらく続くことが預言されます。そして第六の封印が解かれると、大地震が起こり、太陽と月が光を失い、星は天から落ち、古い天地が滅びます。最後に第7の封印が解かれた時に起こることが8章以下に記されていますが、そこでは、戦争や飢饉、疫病などの災害が地上に降りかかり、最終的には人類が滅亡することが預言されています。

 

3 地上の教会と天上の教会――(展開2)

実は、第六の封印が解かれた後、第七の封印が解かれる前の7章の所に、小さな幕間劇が記されています。幕間劇は、二つの場面からなっており、一つ目が1節から8節です。ここには、イスラエルの十二部族から選ばれた14万4千人の神の僕たちが、天使によって神の裁きを免れるための刻印を額に押されているところが描かれています。これは、神の国の完成のために集められ、迫害に耐えて働く、地上における「苦難の教会」を現しています。この刻印という言葉は、家畜に押す焼き印と同じく、所有関係や所属を明らかにするためのしるしであり、バプテスマを受けてキリスト者になった者のことを、ここでは神の刻印を押された者と言っているのです。黙示録が書かれた時代のキリスト者たちは、ローマ皇帝を神として拝むことを強要されましたが、彼らはそれを拒否して迫害されました。主イエスは「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。」と言い、また、「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言いました。彼らは、この主イエスの言葉通りに生きたのです。

二つ目の場面は、続く9節から17節です。ここには、あらゆる国や民族から集まった数えきれないほどの大群衆が白い衣を着て礼拝している光景が描かれています。これは、地上の教会において神の刻印を額に押されてキリスト者となり、迫害に耐え抜いて生きた聖徒たちが天に召されて、天上において神を礼拝している「栄光の教会」を表しています。そのことは、13節で長老の一人が発した「この白い衣を着た者たちはだれか。また、どこから来たのか。」との問いに対し、「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と自ら答えているとおりです。つまり、バプテスマを受けて、イエス・キリストの血で清められた私たちキリスト者は、神の所有物であって、この世には属していません。私たちの本国は天にあるのです。私たちは天国の市民権を持って、この地上で暮らしているのです。それ故に、この地上においては色々な苦難を経験しなければならない。それは、キリスト者の宿命でありますが、しかし、この地上で信仰の道を完走したキリスト者には、天の国において神の御許で礼拝する日が約束されています。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、暑さに苦しむこともありません。それは、主イエス・キリストが牧者として彼らを命の水の泉へと導き、彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださるからです。キリスト者は、どんな苦難の中にあっても、そのような希望を抱いて生きることが出来るのです。それは、黙示録が書かれた時代のローマの圧政に苦しんだキリスト者だけではなく、あらゆる時代、あらゆる地域で苦難の中を歩んでいるキリスト者についても言えることです。黙示録が具体的な人名や地名、年代を示さず、シンボリックな言葉を用いて書いているのは、そこで書かれていることがあらゆる時代、あらゆる地域に当てはまるメッセージとして伝えようとしているからなのです。


4 善き力に囲まれ――(結論)

例えば、第二次世界大戦の戦前・戦中のドイツで権力を握ったヒトラー率いるナチスは、ヒトラーを絶対的指導者として拝むことを教会に求め、彼が進める反ユダヤ主義などの思想に同調することを教会に求めました。それに、ドイツ福音教会内の多くの牧師や信徒が同調していったのですが、その結果、正統な聖書の福音の教えは大きく歪められていきました。昨年11月に公開された「ボンヘッファー~ヒトラーを暗殺しようとした牧師」という映画では、ヒトラーに同調した教会から、ユダヤ教の律法が書かれた旧約聖書が廃棄され、講壇の壁面には十字架の代わりに鍵十字の旗が掲げられるという大変ショッキングな映像が映し出されていました。最初のうちは、教会の結束を強め、時の政権下で教会が生き延びていくための手立てとして、ナチス政権の思想や政策に同調していったドイツ福音教会でしたが、それはやがて教会がもはや教会と言えなくなってしまうほどの変質をもたらしました。そのような中で、問題の重大性を深く認識したボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に加担したことで死刑に処せられてしまいます。これと同じようなことが、同時期の日本でも起こりました。大日本帝国憲法下の日本政府は、天皇を神として拝むことや戦争への協力を教会に求め、国の政策に同調させるために宗教団体の統合を進めました。教会は、生き延びるため、また悲願であった教会の統合を図るためにこれに同調して日本基督教団を結成し、多くの教会は礼拝堂に教育勅語を掲げ、戦勝のために祈り、戦闘機を奉納するための献金を献げました。

現代を生きる私たちは、信仰を守るために殉教しなければならないというような厳しい状況にはありませんが、自分の利益のためには他人の犠牲を顧みないという風潮が全世界的に広がり、自国の利益や安全のために軍備拡張を進める国が増えてする状況は、第二次世界大戦前の状況の状況と相通ずるところが多いように思われます。黙示録の時代の再来のような社会になって、信仰を守り続けていくことが段々難しくなっていくかもしれません。世間からの無言の圧力を感じて、信仰を自由に語ることが憚られる社会になっていくかもしれないのです。そのような社会の中で、自らの信仰を守り、世の中に向かって主の福音を宣べ伝えていくことは、とても勇気のいることであり、覚悟も必要でしょう。しかし、大きな苦難の中であっても、神の善き力によって私たちは守られています。ボンヘッファーは、獄に捕らえられた時、先ほど賛美した「善き力にわれかこまれ」という讃美歌を作詞しました。3節で「たとい主から差し出される杯は苦くても、恐れず、感謝を込めて愛する手から受けよう」と詠っているように、彼はアメリカで亡命を勧める友人たちの誘いを断ってドイツに帰国し、反ヒトラーの活動に身を投じていったのです。私たちの信仰生活も、これからどんな困難が待ち受けているかわかりませんが、「善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も昼もいつも神はわれらと共にいます」と詠うこの賛美歌に励まされつつ、来るべき主の日を待ち望んで生きていきたいと思います。

日本基督教団 横須賀上町教会

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